コンテンツにスキップ

ロバート・バーティー (初代アンカスター=ケスティーヴァン公爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代アンカスター=ケスティーヴァン公爵
ロバート・バーティー
Robert Bertie
肖像画(ゴドフリー・ネラー作)
式部卿
任期
1701年 – 1723年
ランカスター公領大臣
任期
1689年 – 1697年
庶民院議員
任期
1685年 – 1690年
選挙区プレストン選挙区
ボストン選挙区
個人情報
生誕1660年10月20日
死没 (1723-07-26) 1723年7月26日(62歳没)
政党トーリー党ホイッグ党
配偶者メアリー・ウィン(1678 - 1689:死別)
アルビニア・ファリントン (1705 - 1723)
子供ペレグリンほか
父:ロバート・バーティー
母:エリザベス・ウォートン

初代アンカスター=ケスティーヴァン公爵ロバート・バーティー英語: Robert Bertie, 1st Duke of Ancaster and Kesteven PC1660年10月20日1723年7月26日)は、イギリスの貴族、政治家。1666年から1701年までウィラビー・デ・エアズビー男爵の称号を、1701年から1706年までリンジー伯爵の称号を、1706年から1715年までリンジー侯爵の称号を使用した。

生涯

[編集]

第3代リンジー伯爵ロバート・バーティー英語版と2人目の妻エリザベス・ウォートン(Elizabeth Wharton、1719年7月1日没、第4代ウォートン男爵フィリップ・ウォートン英語版の娘)の息子として、1660年10月20日に生まれた[1]

1679年11月に父の手配でヨーク公爵ジェームズと面会、ヨーク公爵が1685年にジェームズ2世および7世として国王に即位すると、ロバート・バーティーも1685年2月にアングルシー副統監に任命され、直後の1685年イングランド総選挙ボストン選挙区英語版から出馬して当選を果たした[2]。しかしバーティーは議会で野党としてふるまい、1688年の名誉革命ではダンビー伯爵の蜂起に参加した[2]翌年のイングランド総選挙で再選を果たし、ウィリアム3世の戴冠式に参加したほか、ランカスター公領大臣に任命された[2]1690年イングランド総選挙ではボストン選挙区とプレストン選挙区英語版の両方で当選を果たしたが、直後の1690年4月19日、繰上勅書により父からウィラビー・デ・エアズビー男爵位を継承、27日に貴族院に登院した[1]

貴族院では最初はコート派だったものの、1696年に準男爵ジョン・フェンウィック英語版の私権剥奪をめぐり野党に転じ、翌年にはランカスター公領大臣から罷免された[3]

1700年にリンカンシャー統監英語版に任命された後[2]、1701年5月8日に父が死去すると、リンジー伯爵の爵位とイングランド式部卿の世襲官職を継承、さらに6月19日にイングランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命された[1]。1702年にアン女王が即位した時点ではトーリー党かつカントリ派の一員だったが(1702年3月18日には枢密顧問官に再任された[1])、1705年イングランド総選挙ホイッグ党に転じ[3]、1706年12月21日にリンジー侯爵に叙された[1]。1710年にトーリー党政権になった後でもトーリー党に戻らず[3]ジョージ1世が即位すると枢密顧問官に再任(1714年10月1日)、さらに1715年7月26日にアンカスター=ケスティーヴァン公爵に叙された[1]

グリムスソープ城英語版

1723年7月26日にグリムスソープ英語版で死去、8月16日にエデナム英語版で埋葬された[1]。息子ペレグリンが爵位を継承した[1]

家族

[編集]

1678年7月30日、ウェストミンスター寺院でメアリー・ウィン(Mary Wynn、1689年9月20日没、準男爵サー・リチャード・ウィン英語版の娘)と結婚した[1]。ロバート・バーティーはこの結婚によりウェールズで年収6,000ポンド以上の領地を獲得した[2]。ロバートとメアリーは2男3女を儲けた。

  • ロバート(1683年2月6日 – 1704年5月4日)
  • ペレグリン(1686年 – 1742年) - 第2代アンカスター=ケスティーヴァン公爵、子供あり
  • エリザベス - 生涯未婚
  • エレノア - 生涯未婚
  • メアリー - 生涯未婚

1705年7月6日、アルビニア・ファリントン(Albinia Farrington、1745年7月29日没、ウィリアム・ファリントンの長女)と再婚[1]、下記の子女を儲けた。

  • ヴィアー(Vere、1768年没)
  • モンタギュー(1753年12月12日没) - エリザベス・ピアース(Elizabeth Piers、1782年没、ウィリアム・ピアース英語版の娘)と結婚、子供あり
  • トマス(1720年7月24日 – 1749年7月21日)
  • ロバート英語版(1721年 – 1782年) - 陸軍軍人、庶民院議員
  • ルイーサ - 1736年、トマス・ブラッドワース(Thomas Bludworth)と結婚

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 127–128.
  2. ^ a b c d e Watson, Paula (1983). "BERTIE, Robert II, Lord Willoughby de Eresby (1660-1723).". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月24日閲覧
  3. ^ a b c Watson, Paula; Gauci, Perry (2002). "BERTIE, Robert, Lord Willoughby de Eresby (1660-1723).". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月24日閲覧
イングランド議会 (en
先代
サー・アンソニー・アービー英語版
サー・ウィリアム・ヨーク
庶民院議員(ボストン選挙区英語版選出)
1685年 – 1690年
同職:ペレグリン・バーティー英語版 1685年 – 1689年
サー・ウィリアム・ヨーク 1689年 – 1690年
次代
ペレグリン・バーティー英語版
サー・ウィリアム・ヨーク
先代
ジェームズ・スタンリー
トマス・パッテン
庶民院議員(プレストン選挙区英語版選出)
1690年
同職:クリストファー・グリーンフィールド
次代
クリストファー・グリーンフィールド
サー・エドワード・チッセンホール
公職
先代
ロバート・フェリップス英語版
ランカスター公領大臣
1689年 – 1697年
次代
スタンフォード伯爵
先代
リンジー伯爵英語版
式部卿
1701年 – 1723年
次代
アンカスター=ケスティーヴァン公爵
名誉職
先代
リンジー伯爵英語版
リンカンシャー統監英語版
1700年 – 1723年
次代
アンカスター=ケスティーヴァン公爵
グレートブリテンの爵位
爵位創設 アンカスター=ケスティーヴァン公爵
1715年 – 1723年
次代
ペレグリン・バーティー
イングランドの爵位
爵位創設 リンジー侯爵
1706年 – 1723年
次代
ペレグリン・バーティー
先代
ロバート・バーティー英語版
リンジー伯爵
1701年 – 1723年
ウィラビー・デ・エアズビー男爵
繰上勅書により)

1690年 – 1715年