レオナルド・ダ・ヴィンチ (潜水艦)
レオナルド・ダ・ヴィンチ | |
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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1940年) | |
基本情報 | |
建造所 | カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ |
運用者 | イタリア王立海軍 |
艦種 | 潜水艦 |
級名 | グリエルモ・マルコーニ級潜水艦[1][2] |
母港 | ヴィシーフランス領ボルドー |
艦歴 | |
進水 | 1939年9月16日 |
最期 | 1943年5月24日沈没 |
要目 | |
水上排水量 | 1,194トン |
水中排水量 | 1,489トン |
長さ | 251 ft (76.5 m) |
幅 | 22.3 ft (6.81 m) |
吃水 | 15.5 ft (4.72 m) |
主機 |
2軸推進 CRDA製ディーゼル機関(3600hp) マレリ製電気モーター(1500hp) |
速力 |
17.8ノット(水上) 8.2ノット(水中) |
乗員 | 57名 |
兵装 |
OTO 100/47速射砲(it)×1 ブレダ 13.2mm(75.7口径)単装機銃(it)×4 53.3cm水中魚雷発射管単装×8(前部4門、後部4門) 搭載魚雷12本 |
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、第二次世界大戦でイタリア王立海軍が建造したグリエルモ・マルコーニ級潜水艦。1940年9月から1943年5月まで大西洋で運用され、大きな戦果を収めた[3][4]。
建造
[編集]レオナルド・ダ・ヴィンチは、イタリアの主要な潜水艦製造会社であるトリエステ近郊のカンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ造船所で建造された。1938年から39年にかけて建造されたマルコーニ級の6隻の中の1隻であり、レオナルド・ダ・ヴィンチは1939年9月に進水した。外洋艦として設計され、地中海と大西洋の両方で運用することを想定していた。
艦歴
[編集]1940年6月、イタリアの第二次世界大戦参戦に伴い、レオナルド・ダ・ヴィンチは占領下にあるフランスのボルドーへ向かった。枢軸国の潜水艦が多数撃沈されているジブラルタル海峡の通過を果たし、1940年10月にボルドーへ入港、イタリア潜水艦群BETASOMに所属した。
レオナルド・ダ・ヴィンチは哨戒活動において、21,500トンのエンプレス・オブ・カナダを含む120,243GRTの17隻を沈めた[5]。レオナルド・ダ・ヴィンチは第二次世界大戦においてイタリアで最も成功した潜水艦であり、艦長のジャンフランコ・ガッツァーナ・プリアロッジャはイタリアを代表する潜水艦のエースであった。1942年7月、レオナルド・ダ・ヴィンチはアメリカ東海岸の港湾を空襲する特殊作戦へ参加する予定となった。そのためCA級特殊潜航艇を搭載可能となるように改装され、秋に試験運用を行った[6]。CA級潜航艇の改修により計画は延期され、レオナルド・ダ・ヴィンチは再び大西洋に戻った。
ニューヨーク港への攻撃計画
[編集]レオナルド・ダ・ヴィンチは、ニューヨーク港への極秘攻撃作戦に参加する予定であった。この作戦は1942年7月にユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼにより計画され、ボルドーのBETASOM基地からハドソン川河口に向けて爆薬を搭載したCA級特殊潜航艇と潜水士を射出し、所定の位置で潜水士がCA級潜航艇を港湾に侵入させる予定であった[7]。爆薬は20kgから100kgであり、港の船を沈めるために設置する計画であった[8]。
1942年8月に行われた初期のテストでは、レオナルド・ダ・ヴィンチが潜航艇を問題なく射出し、回収可能であると結論付けられたが[9]、実際には潜航艇の回収は困難であり、爆薬を設置し終えたら破棄しなければならない可能性の方が高かった[9]。
レオナルド・ダ・ヴィンチの喪失により作戦は延期され、4か月後の休戦協定締結により最終的に中止された[10]。
最後の哨戒任務
[編集]1943年3月、レオナルド・ダ・ヴィンチは南大西洋への最後の哨戒任務に就いた。この任務は最も戦果を挙げた哨戒となった。3月14日、レオナルド・ダ・ヴィンチは西アフリカのタコラディに向かう途中でエンプレス・オブ・カナダを撃沈した。乗船していた1,800名のうち392名が死亡した[11]。3月19日には南大西洋で 7,628トンのイギリスの貨物船ラルワース・ヒルを撃沈した。1名の生存者を捕らえ乗船させ[12]、他2人の男性は、救命いかだで50日間彷徨った後生還している[13]。
レオナルド・ダ・ヴィンチはその後、1943年4月、インド洋のダーバン沖で4隻の船を沈めた[14]。
沈没
[編集]4月に4隻を沈めた後、レオナルド・ダ・ヴィンチは母港へ向かった。1943年5月22日、スペイン沖で艦長はボルドーに向かうという不用意な信号を発した[14]。この信号により潜水艦の位置が探知され、5月23日にイギリスの駆逐艦アクティヴおよびフリゲートネスが激しい爆雷攻撃を行い、ビーゴの西480km、推定座標北緯42度16分0秒 西経15度40分0秒 / 北緯42.26667度 西経15.66667度座標: 北緯42度16分0秒 西経15度40分0秒 / 北緯42.26667度 西経15.66667度にて撃沈された[15]。生存者はいなかった。
戦果
[編集]哨戒 | 日時 | 船名 | 船籍 | トン数 | 付記 |
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4th | 1941年6月28日 | アウリス | イギリス | 8,030 | タンカー、乗組員59名中、生存者27名。 |
6th | 1942年2月25日 | カベデロ | ブラジル | 3,557 | 貨物船、生存者なし。 |
6th | 1942年2月28日 | エバズマ ラトビア | ラトビア | 3,644 | 貨物船、生存者15名。 |
7th | 1942年6月2日 | ライネ・マリー・スチュワート | パナマ | 1,087 | スクーナー |
7th | 1942年6月7日 | チリ | デンマーク | 6,956 | 貨物船、乗員44名中39名生存。 |
7th | 1942年6月10日 | アリオス | オランダ | 5,483 | 貨物船、乗員36名中8名生存。 |
7th | 1942年6月13日 | クラン・マッコーリー | イギリス | 6,471 | 石炭船、乗員90名中1名死亡。 |
8th | 1942年11月2日 | エンパイア・ジール | イギリス | 7,009 | 貨物船 |
8th | 1942年11月5日 | アンドレアス | ギリシャ | 6,566 | 貨物船 |
8th | 1942年11月10日 | マーカス・ホイットマン | アメリカ | 7,176 | リバティ船、死傷者なし |
8th | 1942年11月11日 | ヴィールヘブン | オランダ | 5,291 | 貨物船、死傷者なし |
9th | 1943年3月14日 | エンプレス・オブ・カナダ | カナダ | 21,517 | 客船、1,800名のうち392名死亡 |
9th | 1943年3月18日 | ラルワース・ヒル | イギリス | 7,628 | 貨物船 |
9th | 1943年4月17日 | センビラン | オランダ | 6,566 | 貨物船 |
9th | 1943年4月18日 | マナー | イギリス | 8,007 | 貨物船 |
9th | 1943年4月21日 | ジョン・ドレイトン | アメリカ | 7,177 | リバティ船 |
9th | 1943年4月25日 | ドリーサ | イギリス | 8,078 | タンカー、54名の乗組員のうち11名が生存。 |
Total: | 120,243 |
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ Conway p 306
- ^ Bagnasco p161
- ^ Clay Blair, Hitler's U-boat War: The Hunters, 1939-1942, p.740
- ^ The US Navy's most successful submarine, sank 116,454 GRT, while the Royal Navy's most successful submarine, sank 93,031 GRT of shipping.
- ^ Blair p.739
- ^ Kemp p.59-60
- ^ Giorgerini, Giorgio. (2002). Uomini sul fondo : storia del sommergibilismo italiano dalle origini a oggi. Mondadori, Cles, tipografo trentino.. Milano: Mondadori. pp. 374–375. ISBN 8804505370. OCLC 801321615
- ^ Giorgerini, Giorgio. (2007). Attacco dal mare : storia dei mezzi d'assalto della marina italiana (1st ed.). Milano: Mondadori. pp. 107, 114. ISBN 9788804512431. OCLC 127107202
- ^ a b Raiola, Giulio; de Risio, Carlo (1969). Obiettivo America, in Storia Illustrata
- ^ Giancarlo, Pertegato (2001年9月23日). “Attacco a New York: nel '43 Borghese voleva minare un grattacielo”. Corriere della Sera 2019年6月14日閲覧。
- ^ Associated Press, “400 Lives Lost In Sinking of Liner Year Ago”, The San Bernardino Daily Sun, San Bernardino, California, Saturday 19 February 1944, Volume 50, page 2.
- ^ Allen, Tony (9 May 2008). “SS Lulworth Hill (+1943)”. The Wreck Site. 1 July 2010閲覧。
- ^ "What Cares the Sea?" by Kenneth Cooke, published by McGraw-Hill, New York, 1960.
- ^ a b c Christiano D'Adamo. “Regia Marina Italiana – Boats – Leonardo da Vinci”
- ^ “WRECKsite – Leonardo da Vinci”
参考文献
[編集]- Erminio Bagnasco, Submarines of World War Two, Cassell & Co, London. 1977 ISBN 1-85409-532-3
- Clay Blair|Blair, Clay, Hitler's U-boat War: The Hunters, 1939–1942. Random House 1996. ISBN 0-304-35260-8
- Roger Chesneau, Robert Gardiner: Conway's All the World's Fighting Ships 1922–1946 (1980). ISBN 0-85177-146-7
- Paul Kemp : Underwater Warriors (1997) ISBN 1-85409-455-6
- Giorgerini, Giorgio : Uomini sul fondo. Storia del sommergibilismo italiano dalle origini a oggi, Mondadori, 2002, ISBN 978-88-04-50537-2.
- Zolandez, Thomas (December 2017). “Question 32/53”. Warship International LIV (4): 280–281. ISSN 0043-0374.