ルネ・ド・ブルボン=パルム
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ルネ・ド・ブルボン=パルム René de Bourbon-Parme | |
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ブルボン=パルマ家 | |
1916年頃 | |
全名 | |
出生 |
1894年10月17日 オーストリア=ハンガリー帝国、シュヴァルツァウ |
死去 |
1962年7月30日(67歳没) デンマーク、コペンハーゲン |
埋葬 | オーストリア、プッフハイム城納骨堂 |
配偶者 | マルグレーテ・ア・ダンマーク |
子女 | |
父親 | ロベルト1世 |
母親 | マリーア・アントーニア・デル・ポルトガッロ |
ルネ・ド・ブルボン=パルム(フランス語: René de Bourbon-Parme, 1894年10月17日 - 1962年7月30日)は、ブルボン=パルマ家の公子。オーストリア皇后ツィタの弟。
イタリア語名はレナート・ディ・ボルボーネ=パルマ(Renato di Borbone-Parma)。
生涯
[編集]最後のパルマ公ロベルト1世と、その2番目の妻でポルトガルの廃王ミゲル1世の娘であるマリア・アントニアの間の第7子、四男として生まれた(父にとっては第19子、9番目の息子である)[1]。オーストリア東部に父が所有するシュヴァルツァウ城で生まれ育った[2]。
1921年6月9日にコペンハーゲンにおいて、デンマーク王子ヴァルデマーの娘マルグレーテと結婚した。デンマーク王室はルター派信徒だが、マルグレーテは母マリー・ドルレアンの元で特別にカトリック信徒として育てられていた[3]。
ルネはフランス国籍を有しており、一家は主にフランスで暮らしたが、暮らしぶりは比較的貧しかった。第2次世界大戦前夜、ルネは一時的にフィンランド軍に義勇兵として入隊している[4]。大戦が始まると、ルネ一家はナチス・ドイツのフランス侵攻から逃れてフランスを出国し、大戦が終わるまでスペイン、ポルトガル、アメリカ合衆国を転々とした[5]。
子女
[編集]妻マルグレーテとの間に3男1女をもうけた。
- ジャック・マリア・アントワーヌ・ロベール・ワルドマル・シャルル・フェリックス・シクスト・アンスガル(1922年 - 1964年) - 1947年、ビアギッテ・ア・ホルスタイン=リズラボー伯爵夫人と結婚
- アンヌ・アントワネット・フランソワーズ・シャルロット・ジタ・マルグリット(1923年 - 2016年) - 1948年、ルーマニア元国王ミハイ1世と結婚
- ミシェル・マリー・グザヴィエ・ワルドマル・ジョール・ロベール・カール・エマール(1926年 - 2018年) - 1951年、ブロイ公女ヨランドと結婚(1999年離婚)、2003年にイタリア・サヴォイア家のマリーア・ピアと再婚
- アンドレ・マリー(1928年 - 2011年) - 1960年、Marina Gacryと結婚
脚注
[編集]- ^ Lundy, Darryl. “The Peerage: René Carlo Maria Guiseppe di Borbone, Principe di Parma”. 18 August 2010閲覧。
- ^ “Princess Soon to Marry Belongs to Danish Royalty”, The Washington Post, (14 March 1921)
- ^ Finestone, p. 199.
- ^ “Bourbon Prince to Fight For Finns”, The New York Times (London), (9 February 1940)
- ^ “Danish Prince Marries”, The New York Times (Copenhagen), (10 June 1947)
参考文献
[編集]- Finestone, Jeffrey (1981). The Last Courts of Europe: A Royal Family Album 1860-1914. London: J.M. Dent and Sons Ltd.. ISBN 0-517-41472-4
外部リンク
[編集]- A photograph of Prince René, his wife, and two of their children
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