ルイ=マティウ・モレ
モレ伯爵ルイ=マティウ・モレ(Louis-Mathieu Molé、1781年1月24日 – 1855年11月23日)は、フランスの政治家。フランスの首相(在任:1836年 – 1839年、1848年)を務めた[1]。
生涯
[編集]高等法院の評定官エドゥアール=フランソワ・モレの息子として、1781年1月24日にパリに生まれた[1]。母はクレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブの親族だった[1]。恐怖政治期に父が処刑されたため、青年期は母とともにスイスやイングランドで過ごし[1]、1796年に帰国した[2]。帰国後はエコール・ポリテクニークで学び、社交界ではポーリーヌ・ド・ボーモン(フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンやバルテルミー・カトリーヌ・ジュベールの友人)のサロンに通った[1]。
王政擁護の著作Essais de morale et de politiqueがナポレオン・ボナパルトの目に留まったことで官職に就くようになり、1806年に調査官に、1807年にコート=ドール県知事に、1809年に国務院評定官とdirecteur général des Ponts et Chaussées et des Minesに任命された[1]。同1809年秋には伯爵に叙された[1]。さらにフランス第一帝政末期の1813年11月に司法大臣に就任した[1]。
百日天下期(1815年)にdirecteur général des Ponts et Chaussées et des Minesに復帰したが、評定官には復帰せず、復古王政が始まるとルイ18世から官職と爵位を改めて確認された[1]。復古王政期では首相第5代リシュリュー公爵の政策を支持、1817年から1818年12月まで海軍大臣を務めた[1]。退任以降は野党穏健派に属し、1830年の七月革命の結果を受け入れた[1]。
七月革命により国王に即位したルイ・フィリップ1世の親政期(1830年8月 – 11月)に外務大臣を務め、諸外国による承認をとりつけようとしたが、実際には在ロンドン大使のシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールが外交政策の舵をとった[1]。モレはこのときわずか数か月で外務大臣を退任したが、1836年に首相アドルフ・ティエールが一時失脚すると組閣して、首相と外務大臣を兼任した[1]。首相に即位してすぐシャルル10世在位期の大臣を釈放したが、一方でルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3世)がストラスブール一揆を起こしたためその対処にあたった[1]。外交政策ではスイスとの外交問題に対処したほか、教皇領のアンコーナの駐留軍を引き上げたが、対メキシコ(菓子戦争)、アルジェリア(アルジェリア侵略)では積極的な政策をとった[1]。
やがて閣僚の公共教育大臣フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーと対立するようになり、対立は1837年3月のヌムール公に特権を与える法案をめぐり公になり、モレは4月に内閣改造を行ってギゾーを排除した[1]。しかし同年11月の議会選挙で与党がふるわず、モレは議会でギゾー一派、ティエール率いる中央左派(centre gauche)、オディロン・バロー率いる王党左派(gauche dynastique)、そして共和左派による連合(la coalition)に敵対されることとなった[1]。モレはそれでも国王の信任を背景に1839年初まで持ちこたえたが、議会解散を経た1839年3月の議会選挙で情勢がほとんど変わらず、モレは1839年3月31日に辞任した[1]。
1840年、アカデミー・フランセーズ会員に選出された[1]。以降は議会で頻繁に演説したものの、党派政治で重要ポストに就くことはなくなった[1]。1848年の二月革命ではルイ・フィリップ1世に求められて組閣を試みたが、失敗に終わった[1]。
第二共和政では1848年にジロンド県から選出されて憲法制定国民議会議員になり、1849年に国民議会議員に選出された[1]。国民議会では右派の指導者だったが、1851年12月2日のクーデターをもって政界から引退した[1]。1855年11月23日、ヴァル=ドワーズ県のシャトー・ド・シャンプラートルーで死去した[1]。
評価
[編集]日本大百科全書ではモレ内閣期に「首相の権限は縮小され、大臣職は国王に忠実な二流の人物によって占められ」たと評している[3]。
出典
[編集]関連文献
[編集]- Wood, James, ed. (1907). . The Nuttall Encyclopædia (英語). London and New York: Frederick Warne.
外部リンク
[編集]公職 | ||
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先代 クロード・アンブロワーズ・レニエ |
司法大臣 1813年 – 1814年 |
次代 ピエール・ポール・ニコラ・アンリオン・ド・パンセ |
先代 ローラン・グーヴィオン=サン=シール |
海軍大臣 1817年 – 1818年 |
次代 ピエール=バルテルミー・ポータル・ダルバルド |
先代 ジャン=バティスト・ジュールダン |
外務大臣 1830年 |
次代 ニコラ・ジョゼフ・メゾン |
先代 アドルフ・ティエール |
外務大臣 1836年 – 1839年 |
次代 ルイ・ナポレオン・ランヌ |
先代 アドルフ・ティエール |
閣僚評議会議長(首相) 1836年 – 1839年 |
次代 ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト |
先代 フランソワ・ギゾー |
閣僚評議会議長(首相) 1848年 |
次代 アドルフ・ティエール |
学職 | ||
先代 イアサント=ルイ・ド・ケラン |
アカデミー・フランセーズ 席次34 1840年 – 1855年 |
次代 フレデリック=アルフレ・ド・ファルー |