リパニの戦い
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リパニの戦い | |||||||
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フス戦争中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フス派過激派 |
フス派穏健派(ウトラキスト) | ||||||
指揮官 | |||||||
プロコプ・ヴェリキー † ヤン・チャペク・ゼ・サン 小プロコプ †en: Jan Roháč z Dubé(捕虜) |
en:Diviš Bořek of Miletínek Ulrich II von Rosenberg | ||||||
戦力 | |||||||
10,700 | 14,300 | ||||||
被害者数 | |||||||
1,300人戦死 700人処刑 | 200人戦死 |
リパニの戦い (リパニのたたかい、チェコ語:Bitva u Lipan)又はチェスキー・ブロトの戦いは、1434年5月30日にプラハの40km東のリパニで発生した戦い。 フス戦争を実質的に終わらせた。 ボヘミア同盟(ウトラキスト(穏健派フス派)+カトリック)が、大プロコプ率いる過激派フス派(ターボル派+シロッツィ)を破った。
戦闘
[編集]過激派は戦術的に有利な丘の上にワゴンブルクを布陣し、両軍は暫く睨みあった。 ウトラキストが交渉による平和的解決を試みたが、3日間の交渉は決裂した。 同盟は進軍したが、大砲の射程内には入らず撤退した。 過激派はワゴンブルクを解除して追撃したが、この撤退は過激派をワゴンブルクから引きずり出すための罠で、同盟の射撃に曝された。 同時に過激派陣地近くに隠れていた同盟軍の重騎兵が、開いたワゴンブルクに侵入した。 過激派は短時間で崩壊し、シロッツィ隊長のチャペクは部下と共に近くのコリーンに撤退した。 戦闘は軽装備の過激派への虐殺となり、大プロコプと小プロコプは戦死した。 ロハーチは捕虜となり、助命を約束されて投降した700人の一般兵は騙され、焼き殺された。
戦後
[編集]ターボル派ははっきりと弱体化し、シロッツィに到っては軍団ですらなくなった。
1436年7月5日、イフラヴァでバーゼルの誓約が結ばれ、フス派の聖餐方式が認められ、翌年には異端認定が解除された。
8月、ジギスムントは全主要勢力に認められてボヘミア王となった。
ロハーチ率いるターボル派残党は、クトナー・ホラ近郊のシオン城に籠城したが、ジギスムント軍に破られ捕えられた。
1437年9月9日、ロハーチはプラハで絞首刑に処された。 彼は最期までジギスムントを王と認めなかった。
関連項目
[編集]- 乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ:大西巷一著。2013年~2019年に連載された、フス戦争を描いた漫画。主人公はこの戦いに参加するが生き残り、ハンガリーで娘と再会して物語は完結する。