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リチャード・ブリンズリー・シェリダン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リチャード・ブリンズリー・
シェリダン
誕生 1751年10月30日
アイルランド王国ダブリン
死没 (1816-07-07) 1816年7月7日(64歳没)
職業 劇作家、政治家
国籍 アイルランド王国
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
イギリスの旗 イギリス
代表作 恋がたき
親族 キャロライン・ノートン(孫)
シェリダン・レ・ファニュ(又甥)
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リチャード・ブリンズリー・シェリダン(Richard Brinsley Sheridan, 1751年10月30日 - 1816年7月7日)は、アイルランド出身の劇作家、イギリスのホイッグ党の政治家。

代表作の諷刺喜劇『悪口学校』(1777年)は、シェイクスピア劇と人気を競い、初演から今日まで上演して外したことがないと言われるほどの人気を誇る[1]。18世紀イギリス演劇を代表する傑作と評価されている[1]

前半生

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R・B・シェリダンが生まれたのはダブリンのドーセット通り12番地で、この通りは18世紀後半、ファッショナブルな通りであった(130年後、やはり劇作家のショーン・オケイシーもこの通りで生まれた)。洗礼を受けたのは11月4日。父トマス・シェリダンはその当時、ダブリンの王立劇場で俳優兼監督をしていた。母フランセス・シェリダンは作家(最も有名な小説に『The Memoirs of Sidney Biddulph』がある)。その母は、彼が15歳の時に死んだ。長兄トーマスが死んだのは1750年で、この年、次兄のチャールズ・フランシスが生まれている(没年は1806年)。

シェリダンはロンドンハーロー校で教育を受け、法律を学んでいたが、作曲家トマス・リンリーの娘エリザベス・リンリー(1754年 - 1792年)とロマンティックな駆け落ちをし、1773年4月13日、2人はメリルボーン教会で正式に結婚した。エリザベスとは後に死別するが、息子トーマスを授かった(1775年 - 1817年)。

シェリダンの2度目の結婚相手はエスター・ジェーン・オーグルで、彼女との間に息子チャールズ・ブリンズリー(1843年没)をもうけた。

シェリダンはロンドンに戻り、劇作をはじめた。最初の劇は『恋がたき』で、1775年にコヴェント・ガーデンで上演されたが、初日は失敗だった。シェリダンは2度目の興業で、滑稽なアイルランド人役により才能のある俳優をキャスティングした。それが大当たりで、たちまちシェリダンは若き劇作家の評判を確立した。この作品はイギリス文学のスタンダードとなった。

名声と富を得て、シェリダンはドルリー・レーン劇場の株を買った。代表作『悪口学校』(1777年)は英語で書かれたComedy of manners(風俗喜劇、風習喜劇)の傑作の1つと見なされている。続いて書かれた『The Critic』(1779年)は、風刺的な王政復古時代の劇『The Rehearsal』の焼き直しで、1946年オールド・ヴィック・シアターにて、ローレンス・オリヴィエ主演で注目すべき再演が行われた(1晩のみ『オイディプス』も同時上演)。

シェリダンは社交界の花形で作家のキャロライン・ノートンの祖父で、第3代カナダ総督ならびに第8代インド総督フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッドの曾祖父でもある。有名な怪奇小説作家シェリダン・レ・ファニュは、又甥にあたる。

政治活動

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シェリダンはホイッグ党の政治家で、同党の有力な女性支持者デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナの後援を受けて1780年に庶民院議員になった。雄弁家としてならし、1812年まで議員を続け、また党の要職にも就いた。さらに、コーンウォール公の歳入役(1804年 - 1807年)、海軍財務長官(1806年 - 1807年)のポストに就いた。1815年12月に病にかかり、以後は寝たきりの生活を強いられ、翌年に貧困のうちに死去した。ウェストミンスター寺院の「詩人のコーナー」に埋葬された。葬儀には公爵・伯爵・卿・子爵たち、ロンドン市長、その他多くの著名人が参列した。

作品

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他に詩集、庶民院議員を務めていた当時の政治的演説などがある。

出典

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  1. ^ a b 中野里皓史「悪口学校」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E6%82%AA%E5%8F%A3%E5%AD%A6%E6%A0%A1コトバンクより2024年4月1日閲覧 

関連項目

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外部リンク

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