ラ・アルヘンティーナ (軽巡洋艦)
竣工時の「ラ・アルヘンティーナ」
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艦歴 | |
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発注 | ヴィッカース・アームストロング社 |
起工 | 1936年1月11日 |
進水 | 1937年3月16日 |
就役 | 1939年1月31日に竣工の後、回航されて1939年4月12日にアルゼンチン海軍で就役。 |
退役 | 1947年2月3日 |
その後 | 1974年にスクラップとして売却 |
除籍 | 1972年 |
前級 | |
次級 | |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:6,500トン 満載:7,500トン |
全長 | 164.9m -m(水線長) |
全幅 | 17.22m |
吃水 | 5.03m |
機関 | ヤーロー式重油専焼水管缶4基 +パーソンズ式ギヤード・タービン4基4軸推進 |
最大 出力 |
54,000hp |
最大 速力 |
30.0ノット |
航続 距離 |
12ノット/1,2000海里 |
燃料 | 重油:300トン(常備)、1,050トン(満載) |
乗員 | 800名[注釈 1] |
兵装 | アームストロング Mark W 15.2cm(50口径)三連装砲3基 アームストロング Mark P 10.2cm(50口径)単装高角砲4基 ヴィッカーズ 4cm(39口径)単装ポンポン砲8基 53.3cm三連装魚雷発射管2基 |
装甲 | 舷側:76mm(水線部) 甲板:51mm(主甲板、最厚部) 主砲塔:51mm(前盾) 司令塔:76mm(側盾)、-mm(天蓋) |
航空兵装 | スーパーマリン ウォーラス水上機1機、カタパルト1基 |
ラ・アルヘンティーナ (ARA La Argentina) は、アルゼンチン海軍の軽巡洋艦で[3]、イギリスで建造された[4]。報道を含め「アルゼンチナ号」と呼称された事例も多い[5][注釈 2]。 同型艦はない。練習艦となり[注釈 3]、1940年6月には練習艦隊として日本に寄港したこともある[8][9][注釈 4]。
概要
[編集]アルゼンチン海軍は、軍艦を諸外国から輸入する方式で戦備を整えていた[11][12][13]。本艦は、自国の制海権維持を主任務として建造された巡洋艦である。また旧式練習艦(フリゲート艦)プレジデント・サルミエントの代艦という側面もある[14]。海軍休日時代、アルゼンチンは1926年計画によりイタリア王国にトレント級重巡洋艦の輸出仕様を発注し[15]、ベインティシンコ・デ・マヨ級重巡洋艦2隻がイタリアで建造された[16]。同級3番艦の建造が中止となり、1934年計画においてイギリスで建造されたのが本艦である[17]。アリシューザ級軽巡洋艦[注釈 5]をタイプシップとしており[17]、練習巡洋艦としての運用も考慮されていた[19]。
1934年に議会の承認を得て、1935年にイギリスのヴィッカース・アームストロング社に1隻600万ペソで発注された。同社のバロー造船所で建造[19][注釈 6]。1937年末の引渡しを予定していた[20]。
艦形
[編集]本級の船体形状は乾舷の高い長船首楼型船体で外洋での凌波性は良好であった。武装配置は、15.2cm(50口径)砲を三連装砲塔に収めて前甲板に背負い式配置で2基、後甲板に1基を配置し、船体中央部の2本の煙突の間に回転式のカタパルト1基を配置し、その上に水上機1基が置かれ、この水上機や艦載艇の揚収用としてトラス構造のクレーンが両舷に設置された。対空兵装として後部煙突の後方、後部主砲塔との間に10.2cm高角砲を単装砲架で両舷各2基、計4門配置し、また艦橋から船体中央部にかけての両舷には40mm機関砲を単装砲架で各舷4基、計8門搭載した。
武装
[編集]主砲
[編集]本艦の主砲はアームスロング Mark W 15.2cm(50口径)砲を採用した。その性能は重量45.3kgの砲弾を仰角45度で23,500mまで届かせることが出来た。 砲塔の俯仰能力は仰角45度・俯角7度で、旋回角度は船体首尾線方向を0度として左右150度の旋回角度を持つ。発射速度は毎分10発であった。
高角砲、その他の備砲、水雷兵装
[編集]本艦の高角砲はヴィッカース=アームストロング社のMark P 10.2cm(50口径)高角砲を採用した。その性能は14.1kgの砲弾を使用した場合、仰角45度で射程18,200m、最大仰角90度で射高11,400mであった。旋回と俯仰は電動と人力で行われ、左右方向を0度として50度旋回でき、俯仰は仰角90度・俯角5度であった。発射速度は毎分10~12発だった。これを単装砲架で片舷2基ずつ計4基を搭載した。他に、近接対空火器として英国軍艦に広く採用されている1930年型 Mark8 ポンポン砲(pom-pom gun)を単装砲架で8基を装備した。
水雷兵装として、53.3cm三連装水上魚雷発射管を片舷1基ずつ計2基を搭載した。
艦歴
[編集]1939年(昭和14年)4月12日、就役した。第二次世界大戦が勃発すると、アルゼンチンは中立を宣言した[21]。1940年(昭和15年)3月下旬、本艦は地球を一周する練習航海に出発する。その際、皇紀2600年を記念して、大日本帝国を訪問する予定が組まれた[注釈 7]。 5月下旬、アメリカ合衆国西海岸のサンフランシスコで開催された金門橋万国展覧会に参加した[23]。26日、サンフランシスコを出港する[24]。 6月上旬、ハワイ州オアフ島のホノルルに寄港[7]。 6月下旬、練習航海の途中で日本に立ち寄る[注釈 2][注釈 8]。
6月20日[2]、本州の横浜港に到着した[26][27]。 日本海軍に贈呈する油絵も積み込んでいた[注釈 9]。 22日、艦長と副長は昭和天皇に拝謁した[28][注釈 10]。吉田善吾海軍大臣を訪問した際には、勲章を伝達されている[注釈 11]。水交社では海軍省と軍令部主催の午餐会が開かれ、日本側からは近藤信竹軍令部次長など85名が出席した[31]。 6月25日、住山海軍次官、近藤軍令部次長、松村神奈川県知事、アルゼンチン大使などが本艦を訪問し、油絵の答礼として七宝焼の花瓶を贈呈した[注釈 12]。同日、横浜港を出港する[5]。
神戸港に移動後[32]、7月3日に離日してフィリピンのマニラにむかった[33][34]。
1972年に退役するまで、練習航海任務に従事した。
登場作品
[編集]- World of Warships - パンアメリカ陣営、Tier5。
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 1940年航海時[1]、654名(士官候補生82名)[2]。
- ^ a b 8.外國艦艇本邦沿岸出入一覧 昭和15年[6] 國名:アルゼンテイン|艦艇名:練習艦アルゼンチナ|在港期間:自6.20 至6.25/自6.26 至7.3|寄港地:横濱/神戸 〕
- ^ アルゼンチン海軍練習艦巡洋艦ラ・アルゼンチナ號(六千噸)が七十五名の候補生を乗せ日本訪問の途次六月二日ホノルル入港、同八日迄碇泊する由昨日海軍當地からされた、同號は英國のヴイツカース・アームストロング會社により建造され乗組員は五百五十六名、艦長はアベラルド・バンチン大佐である[7](記事おわり)
- ^ 【横濱二十日同盟】[10] 南米の海の使節アルゼンチン巡洋艦アルヘンチーナ號(七六〇〇噸)が二十日午前十時横濱に入港、海軍省小野田副官ら港外まで出迎へ棧橋一帶を埋めつくした小學生がア國々旗を振つて歡迎、乗組の水兵と美しい親善風景を見せた、同艦は二十五日まで横濱に碇泊、神戸・マニラ經由で歸國する筈である(記事おわり)
- ^ パース級軽巡洋艦の縮小版として、1931年~1933年の各計画で4隻建造された[18]。
- ^ 同造船所では、アルゼンチン海軍向けのブエノス・アイレス級駆逐艦を2隻建造していた[20]。
- ^ アルゼンチンから初の練習艦 二千六百年祝賀に來朝[22] アルゼンチンから經濟視察團が來朝して日亞親善をふかめてゐる折柄今度は同國の練習艦アルヘンテイーナが同國の若い士官を乗せて世界一周航海の途中六月廿日若葉の日本を訪れることになつたが、これは紀元二千六百年をむかへた日本にアルゼンチンの友好の誠意を表するためで同國の練習艦隊が日本を訪れるのはこれが最初で同國海軍當局から内山田駐亞公使を通じて外務省に申込みがあつた。
アルヘンテイーナ號は六月廿日横濱に入港し廿八日まで同港に碇泊、廿七日から七月三日まで神戸に滞在して日亞交歡をとげたのちマニラにむかふ豫定であるが、同艦は六千トンのアルゼンチン最優秀の巡洋艦 一九三五年に英國アームストロング會社で竣工、乗員約五百名 速力卅一ノツト、一五サンチ砲九門、四インチ砲四門、水雷發射管六を装備し飛行機二臺を搭載してゐる。アルゼンチン海軍は南米第一であり、かつて日露戰爭の折わが國は同國の軍艦二隻を購入「日進」「春日」と命名して活躍させたことがあり、海の日亞親善は今日までも極めてふかいものがある。 - ^ ようこそ海の友 アルゼンチン 練習艦隊 お土産積んで近く訪日(東京十九日同盟)[25] 日本海海戰當時「春日」をわが國に譲渡して以來海の因縁深い南米アルゼンテンの練習巡洋艦アルゼンチナ號(七六〇〇トン)は、紀元二千六百年慶祝の晴れの使命を擔つて二十日午前十時横濱に入港する。同艦は艦長バンチン大佐指揮に若き候補生八十二名ほか下士官兵總印六百五十四名が乗組み(中略)同艦は横濱市に二十六日まで碇泊して神戸に向ひ、七月三日神戸を出港マニラに向ふがアルゼンチン國練習艦の我國來訪は三回目十五年ぶりである。
- ^ 〔 東京十九日 〕[1] 日本海々戰當時春日を我國に譲渡して以來海の因縁深い南米アルゼンチンの練習巡洋艦アルゼンチナ號(七六〇〇噸)は紀元二千六百年慶祝の晴れの使命を荷負つて二十日午前十時横濱に入港した
同艦は艦長バウチン大佐指揮の下に若き候補生八十二名外、下士官兵總員六百五十四名か乗組特に友邦の式年を祝する贈物として名畫デイアデ、ソールに「「日本建國二千六百年祭に當りアルゼンチン國海軍より日本海軍に贈る」と言ふ献辭を附して積込んでゐる
同艦は廿六日まで横濱に、碇泊して神戸に向ひ七月三日神戸出發マニラニ向ふがアルゼンチン國練習艦の我國来訪はこれで三回目十五年振りである(記事おわり) - ^ ◎謁見[29] ◎謁見 アルゼンティン國練習艦ラ、アルヘンティーナ艦長海軍大佐アベラルド、パンティン竝同艦副長海軍中佐ホセ、アー、デレピアーネ今般渡來ニ付敬意ヲ表スルタメ本邦駐劄同國特命全權公使ドクトル、ロドルフォ、モレーノ同件一昨二十二日午前十一時三十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ
- ^ ◎ア號艦長に勲章傳達[30] ……今日午後十二時半吉田滿相を訪問したアルゼンチーナ號艦長アベラルド・ド・バンテイン大佐に日本より贈られた勲章が傳達された。寫眞はその傳達式(記事おわり)
- ^ 【横濱廿五日同盟】[5] 去る廿四日横濱に入港したアルゼンチン軍艦アルヘンチナ號は廿五日午後四時横濱を出航、神戸に向つたが出航に先立ち住山海軍次官、近藤軍令部次長は同艦に至り、松村神奈川縣知事モレノ駐日アルゼンチン公使他列席の下にパンチン艦長に對しアルゼンチンから贈られた油繪の答禮として日本海軍から贈る七寶焼の花瓶一基を贈呈、午餐を共にし、和氣藹々裡に最後の歡を盡した(記事おわり)
脚注
[編集]- ^ a b “アルゼンチン練習艦 二十日横濱入港”. Rima Nippō. pp. 03 (1940年6月20日). 2023年10月15日閲覧。
- ^ a b 「同盟旬報第4巻第17号(通号108号)(昭和15年6月30日作成)(防衛省防衛研究所) 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070021600 p.75〔 アルゼンチンからの親善の軍艦 〕
- ^ ラテン・アメリカの全貌 1943, p. 104各國軍備の概觀
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 139aアルゼンチン/軽巡洋艦「ラ・アルヘンティーナ」 LA ARGENTINA
- ^ a b c “南米の海の使節 アルゼンチナ號 神戸に向ふ”. Burajiru Jihō. pp. 03 (1940年6月26日). 2023年10月15日閲覧。
- ^ 海軍省年報、昭和15年 1942, p. 21原本23頁
- ^ a b “アルゼンチン練習艦 訪日の途次六月當地寄港”. Nippu Jiji. pp. 03 (1940年7月3日). 2023年10月15日閲覧。
- ^ “◎◎ア號艦長に勲章傳達◎◎”. Kashū Mainichi Shinbun. pp. 02 (1940年7月23日). 2023年10月15日閲覧。
- ^ 「外務省報第四百四十六号(昭和十五年七月一日)/宮廷記事(外務省外交史料館)外務省報 第二十五巻(外・報25) 」 アジア歴史資料センター Ref.B13091863900
- ^ “ようこそ友邦練習艦 アルゼンチナ號を迎へ美しい日亞親善風景”. Nippu Jiji. pp. 03 (1940年6月20日). 2023年10月15日閲覧。
- ^ ラテンアメリカ総攬 1944, p. 30.
- ^ ブラッセー海軍年鑑 1937, p. 39a第八節、南米・中米諸國 一、亞爾然丁
- ^ ラテンアメリカ総攬 1944, p. 57(アルゼンチン)(六)軍備、(ロ)海軍
- ^ ブラッセー海軍年鑑 1936, p. 43a八、南米諸國(イ)亞爾然丁
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 115aイタリア/重巡洋艦「トレント」級 TRENTO CLASS
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 138aアルゼンチン/重巡洋艦「ベインティシンコ・デ・マヨ」級 VEINTICINCO DE MAYO CLASS
- ^ a b 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 139b.
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 83イギリス/軽巡洋艦「アリシューザ」級 ARETHUSA CLASS
- ^ a b ブラッセー海軍年鑑 1936, p. 43b.
- ^ a b ブラッセー海軍年鑑 1937, p. 39b.
- ^ ラテンアメリカ総攬 1944, pp. 58–59(アルゼンチン)(七)外交
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.03.11、新世界朝日新聞/nws_19400311(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022384600 p.2
- ^ “大博参加のアルゼンチーナ號 練習生を乗せ日本へ 桑港碇泊地中猶太人が頻りに水兵達に百圓紙幣賣付けた”. Nichibei Shinbun. pp. 03 (1940年5月28日). 2023年10月15日閲覧。
- ^ 「同盟旬報第4巻第15号(通号106号)(昭和15年6月10日作成)(防衛省防衛研究所) 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070021200 p.131〔 中南米諸國/亞國巡洋艦日本へ 〕
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.06.20、新世界朝日新聞/nws_19400620(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022404800 p.3
- ^ 「6月(3)/昭和15年6月~8月 海軍公報(部内限)中巻(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070388700 pp.49-50〔 海軍公報(部内限)第3532号、昭和15年6月20日/○艦船所在 ○六月二十日午前十時(以下略) 〕
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.06.21、新世界朝日新聞/nws_19400621(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022405000 p.3〔 南米からの海の使節 横濱の歡迎陣(横濱二十日同盟) 〕
- ^ 「同盟旬報第4巻第18号(通号109号)(昭和15年7月10日作成)(防衛省防衛研究所) 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070021800 p.8〔 亞國正副艦長を謁見 〕
- ^ 昭和15年06月24日(月)官報第4038号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ9(原本785)
- ^ “◎ア號艦長に勲章傳達”. Kawai Shinpō. pp. 04 (1940年9月17日). 2023年10月15日閲覧。
- ^ “アルゼンチナ號歡迎會”. Nippu Jiji. pp. 02 (1940年6月22日). 2023年10月15日閲覧。
- ^ 「6月(4)/昭和15年6月~8月 海軍公報(部内限)中巻(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070388800 pp.31-32〔 海軍公報(部内限)第3537号、昭和15年6月26日/○艦船所在 ○六月二十六日午前十時(以下略) 〕
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.07.04、新世界朝日新聞/nws_19400704(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022407400 p.3〔 アルゼンチン練習艦隊歸途につく(神戸三日同盟) 〕
- ^ “アルゼンチナ號神戸出港【神戸三日同盟】”. Nippu Jiji. pp. 02 (1940年7月3日). 2023年10月15日閲覧。
参考文献
[編集]- 「世界の艦船増刊第46集 イギリス巡洋艦史」(海人社)
- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門「<第2部> 条約時代の巡洋艦」『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終會編輯部同人 共譯『一九三六年度 ブラッセー海軍年鑑(譯書) ― 本文全譯 ―』海軍有終會、1936年7月。doi:10.11501/1910669 。
- 海軍有終會編輯部同人 共譯『一九三七年度 ブラッセー海軍年鑑(譯書) ― 本文全譯 ―』海軍有終會、1937年7月。doi:10.11501/1910666 。
- 海軍有終會編輯部同人 共譯『一九四〇年版 ブラッセー海軍年鑑(譯書) ― 本文全譯 ―』海軍有終會、1940年10月。doi:10.11501/1910664 。
- 海軍大臣官房『昭和十五年 海軍省年報 第六十六回 昭和十七年十一月刊行』海軍大臣官房、1942年11月 。
- 野田良治「第五章 軍備」『ラテン・アメリカの全貌』遠藤書店、1943年7月。doi:10.11501/1044394 。
- ラテンアメリカ中央会 編『ラテンアメリカ総攬』日本外政協会、1944年7月。doi:10.11501/1124001 。