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ランドリー (ヌヴェール伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ランドリー・ド・モンソー
Landry de Monceaux
ヌヴェール伯
在位 989年 - 1028年

出生 970年
死去 1028年
フランス王国、クールドン城
配偶者 出自不明の女性
  マティルド・ド・ブルゴーニュ
子女 ボドン
ランドリー
ロベール
ルノー1世
ギー
マティルド
家名 ヌヴェール家
父親 モンソー=ル=コント領主ボドン
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ヌヴェール伯ランドリー・ド・モンソー(Landry de Monceaux, 970年 - 1028年)は、初代ヌヴェール伯(在位:989年 - 1028年)。

生涯

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ランドリーは、モンソー=ル=コントの領主でモンソー城を建設したボドンの息子である。990年頃、ランドリーは、それまでニヴェルネーを統治していた義父のブルゴーニュ伯オット=ギヨームからヌヴェール伯領を授けられた。これは、ブルゴーニュ公アンリ1世フランス王ユーグ・カペーの同意を得て行われた[1]

ランドリーは、サンジェルマン・ド・オセール、フラヴィニー、クリュニーの各修道院に対して寛大な態度をとったことで知られ、ランドリーの城はローマに向かう巡礼者は貧富を問わず誰でも利用することができた[2]

993年、ランドリーは、フランス王に対する反逆を企てたとして、ラン司教アダルベロンを告発するための証拠を集めた。アダルベロンは、皇帝オットー3世ブロワ伯ウード1世と共謀して、フランス王国を皇帝の管轄下に置くことを企てたと言われている。長い裁判の後、アダルベロンは恩赦を受け、ランドリーはユーグ・カペーと王太子ロベールからフランスのセネシャルの地位を与えられた[3]

1002年、ブルゴーニュ公アンリ1世が子を残さずに死去すると、養子のブルゴーニュ伯オット=ギヨームと甥のフランス王ロベール2世との間で継承戦争が勃発した。ランドリーは義父を支持し、オセールを占領した。ロベール2世はノルマンディー公リシャール2世に訴え、3万人の兵士を派遣した。ロベール2世はオセールとその周辺地域を2度包囲したものの失敗に終わった後、1005年にランドリーとの和平に同意した[1]

1023年、ランドリーはサンス大司教が開催した和平会議に出席し、ブルゴーニュとシャンパーニュの領地争いをめぐってフランス王とブロワ伯ウード2世を和解させた[2]

ランドリーは1028年、クールドン城で死去した[3]

結婚と子女

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姓氏不明の女性との最初の結婚により3子をもうけた[1]

ブルゴーニュ伯オット=ギヨームの娘マティルド(983年 - 1005年)との結婚により、3子をもうけた[1]

脚注

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  1. ^ a b c d Jean Lebeuf (abbot) , Memoirs concerning the ecclesiastical and civil history of Auxerre... , vol. 2, Auxerre, Parriquet,1743, 923 pp.
  2. ^ a b Ignace-Joseph-Casimir Goube, History of the Duchy of Normandy , vol. 1, Rouen, Mégard,1815
  3. ^ a b Constance Brittain Bouchard, Sword, Miter and Cloister. Nobility and the Church in Burgundy (980-1198) , Cornell University Press,1987.
先代
オット=ギヨーム
ヌヴェール伯
オセール伯
989年 - 1028年
次代
ルノー1世