ランドリー (ヌヴェール伯)
ランドリー・ド・モンソー Landry de Monceaux | |
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ヌヴェール伯 | |
在位 | 989年 - 1028年 |
出生 |
970年 |
死去 |
1028年 フランス王国、クールドン城 |
配偶者 | 出自不明の女性 |
マティルド・ド・ブルゴーニュ | |
子女 |
ボドン ランドリー ロベール ルノー1世 ギー マティルド |
家名 | ヌヴェール家 |
父親 | モンソー=ル=コント領主ボドン |
ヌヴェール伯ランドリー・ド・モンソー(Landry de Monceaux, 970年 - 1028年)は、初代ヌヴェール伯(在位:989年 - 1028年)。
生涯
[編集]ランドリーは、モンソー=ル=コントの領主でモンソー城を建設したボドンの息子である。990年頃、ランドリーは、それまでニヴェルネーを統治していた義父のブルゴーニュ伯オット=ギヨームからヌヴェール伯領を授けられた。これは、ブルゴーニュ公アンリ1世とフランス王ユーグ・カペーの同意を得て行われた[1]。
ランドリーは、サンジェルマン・ド・オセール、フラヴィニー、クリュニーの各修道院に対して寛大な態度をとったことで知られ、ランドリーの城はローマに向かう巡礼者は貧富を問わず誰でも利用することができた[2]。
993年、ランドリーは、フランス王に対する反逆を企てたとして、ラン司教アダルベロンを告発するための証拠を集めた。アダルベロンは、皇帝オットー3世やブロワ伯ウード1世と共謀して、フランス王国を皇帝の管轄下に置くことを企てたと言われている。長い裁判の後、アダルベロンは恩赦を受け、ランドリーはユーグ・カペーと王太子ロベールからフランスのセネシャルの地位を与えられた[3]。
1002年、ブルゴーニュ公アンリ1世が子を残さずに死去すると、養子のブルゴーニュ伯オット=ギヨームと甥のフランス王ロベール2世との間で継承戦争が勃発した。ランドリーは義父を支持し、オセールを占領した。ロベール2世はノルマンディー公リシャール2世に訴え、3万人の兵士を派遣した。ロベール2世はオセールとその周辺地域を2度包囲したものの失敗に終わった後、1005年にランドリーとの和平に同意した[1]。
1023年、ランドリーはサンス大司教が開催した和平会議に出席し、ブルゴーニュとシャンパーニュの領地争いをめぐってフランス王とブロワ伯ウード2世を和解させた[2]。
ランドリーは1028年、クールドン城で死去した[3]。
結婚と子女
[編集]姓氏不明の女性との最初の結婚により3子をもうけた[1]。
- ボドン(995年以前 – 1023年) - アンジュー伯フルク3世の娘アデール・ド・ヴァンドーム=アンジューとの結婚によりヴァンドーム伯となった。
- ランドリー(1002年生)
- ロベール(1032年没)
ブルゴーニュ伯オット=ギヨームの娘マティルド(983年 - 1005年)との結婚により、3子をもうけた[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d Jean Lebeuf (abbot) , Memoirs concerning the ecclesiastical and civil history of Auxerre... , vol. 2, Auxerre, Parriquet,1743, 923 pp.
- ^ a b Ignace-Joseph-Casimir Goube, History of the Duchy of Normandy , vol. 1, Rouen, Mégard,1815
- ^ a b Constance Brittain Bouchard, Sword, Miter and Cloister. Nobility and the Church in Burgundy (980-1198) , Cornell University Press,1987.
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