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ライカ・コンタックス論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ライカ・コンタックス論争(ライカ・コンタックスろんそう)(または火の粉論争[1][注釈 1])とは、 1932年エルンスト・ライツが距離計連動型のライカIIを、ツァイス・イコンが長基線長距離計連動型のコンタックスIを出したことがきっかけとなって起こり、1935年から1936年頃にピークを迎えた[2]両者の製品比較論争である[3]

尤も当初は日本のそれぞれの愛好者の間でだけの話題であったので問題はなかった[3]。だが次第に「手は出ないが口は出る(高嶺の花であるライカやコンタックスを買うもしくは所有する気はないが論争にはしゃしゃり出てくる)」者達が口を挟む様になり、しかもその者達がライカ党コンタックス党に二極分化する事態となり[3]、論争は泥沼化していった。この論争はカール・ツァイスの日本総代理店であったカール・ツァイス株式会社や、同じくエルンスト・ライツ(現ライカ・カメラ AG)の日本総代理店であったシュミット商会をも巻き込んだが、あくまで日本においてのみの論争であり、ドイツのカール・ツァイスやツァイス・イコン、そしてエルンスト・ライツはいずれもあずかり知らぬことだった[4]

経緯

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コンタックスシンパであった佐和九郎は、カール・ツァイス株式会社が1935年に発行した『コンタックス綜合型録兼使用書』において、随所にライカの名こそ出さなかったものの、明らかにライカと分かる書き方でその機構上の欠点を書き並べ、コンタックスの優位性を強調した。とはいえ実はライカ側も同じことをしていたこともあり、それがこの論争に油を注いでしまう結果となった[5]

またアサヒカメラ1935年8月号[注釈 2][5][1]p.226-229にK.K.Kなる匿名の人物[注釈 3]の筆による『「ライカ」と「コンタツクス」とどちらがよいか?』と、p.230-231に同じくR.R.Rなる匿名の人物の筆による『標準型フヰルム使用カメラ雑考』という比較記事が二点掲載された[注釈 4]。『標準型フヰルム使用カメラ雑考』の方は点数を付けることはせず、実際に使ってみた上での感想を述べている程度で、実際に比較に使った機種名は明示せず単に「ライカ」、「コンタックス」としか記されていない[注釈 5]。一方『「ライカ」と「コンタツクス」とどちらがよいか?』は当時の最新型ライカIIIaコンタックスIを比較し、12項目100点満点で採点している。両方のカメラを使ってきた中立的な立場で書いたとはしているが、評価は

機種 外観美 容積と重量 堅牢度 レンズ シャッター 距離計 ファインダー フィルム装填 精密度と確実性 取り扱いと便否 付随事項 値段 合計
ライカIIIa 100点 100点 65点 75点 60点 85点 95点 90点 90点 100点 80点 100点 1040点
コンタツクスI 85点 70点 100点 100点 100点 100点 100点 100点 100点 100点 100点 80点 1135点

[注釈 6]

("カメラの触感"と言うサイトに全文が掲載されています[8]。)

とかなりコンタックス側を良いとする偏った評価になっていた[1][注釈 9][注釈 10]

これに対し、シュミット商会の井上鍾がこの記事に反駁すべく、佐和九郎の評価に対し逐一反論した内容を収めた小冊子『降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ』(『The Classic Camera』と言うサイトで全文が公開されています[17]。)を1936年3月に発行した[注釈 11]。なおこの小冊子には「ライカの新技法」(1935年発刊)や「ライカ写真入門」(1936年発刊)などの著書がある畑宗一や、当時カメラ修理の第一人者で精密機械工でもあった牧村雅雄らが寄稿している[2][注釈 12]

論争は門外漢が出しゃばる事で感情が先立って収拾が付かなくなり、重箱の隅をつつく粗探しの様相すら呈し[注釈 13]、ついにはドイツ本国政府に話が持ち込まれた事で自粛が要請され、ひとまず一段落となった[4]。しかしその後も時々に双方の愛好者の間で話題となっては再燃し、その火種は戦後にも猶燻り続ける事になる。

例えば佐和九郎は1954年刊行の『カメラとレンズ[注釈 14]』の中でライカに関して、

  • 『競争相手ができて以来、ライカは、実質の向上に努めると、ともに、クロウム・メッキにより、美しさに魅力を感じさせる商策を採つた。今日の小型カメラ(大型カメラにも及んでいる)が、ピカピカとなつたのは、ライカが考えたことの普及である[19]。』
  • 『ピカピカさせたことが、商売上手であつたように、ライカは商売がうまいこと、宣伝に費用をおしまず、手段を選ばず、徹底的にやるということでは、カメラの歴史の中で、ライカに及ぶものがない[19]。』
  • 『したがって、ライカの性能や、機能は、実際よりも誇張されて宣伝され、これを事実と信じさせ、敬信的?の礼賛者がすくなくないところまで達している。だから、商売の巧みな点では、第1位を占めるであろう[19]。』
  • 『(ズミタールを取り付けたライカIIIfのシャッタースピードについて)露光の知識のあるものから見ると、在来の速度段階が稚愚であると批難されていたのであるから、改めるのは、あたりまえ。今頃になって、ようやく改めたのは、あまりに遅れすぎた[19]
  • 『宣伝が、うまく当たつて、よく売れた。これに便乗した、類似形式のカメラが、あちら、こちらより、発売されている[19]
  • 『連続撮影装置の“ライカヴィト”[注釈 15]』を付けたくらいの改良では、市場の優位を、いつまでも、保つことは、むずかしいであろう[19]。』
  • 『思い切った改造をすれば、コンタックスに似たものとなる。ライカは苦しい立場にあると同情する[19][注釈 18]。』
  • 『(コンタックスIIのシャッター部の主要メカニズムは)ライカ・タイプに比べると、はるかに、精巧である[24]。』
  • 『ライカの速度目盛は、低速度において、あまりにも、しろうと的であった。感光乳剤の感光性状を知らない、速度目盛であった[24]。』
  • 『漸く気がついたので、最新のものは、改まつたが、まだ無用な目盛が残つている[24]。』
  • 『ライカのシャッター速度目盛を模倣したカメラも、おそらく、近い将来に改まるであろう[24]。』
  • 『ライカのシャッターは、一つの速度ダイヤルで、速度の調節ができないため、異なつた処にある、二つのダイヤルを使つている。拙い方法であることは、機械学知識のある人の、おそらく、すべてが、認めるところであろう。ニコン・カメラのデザイナーのほうが、はるかに、あたまがよろしい[24]。』(全て原文ママ)

などと扱き下ろしている[注釈 19][注釈 20]

だがライカがその100万台目を生産した1961年と同じ年に、(佐和九郎の思いとは裏腹に)コンタックスはついに生産を中止し、これにより論争は完全に終止符が打たれることとなった[4]

注釈

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  1. ^ ただし、この「火の粉論争」なる呼称は、字数制限のためにこのように表記した可能性がある。
  2. ^ 『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99』が「アサヒカメラ」1935年5月号[3]としているのは誤りである。
  3. ^ この匿名氏は佐和九郎だと思われる[5]が、確たる證據はなく、数名の人物によって書かれたものである可能性も捨てきれない。
  4. ^ [6]。なお、“R.R.R”氏なる匿名氏の正体は不詳である。
  5. ^ 他に「スーパー・ネツテル」、「ペツギー」、「レチナ」も挙げられているが、これらはほんの「触り」程度の扱いである。
  6. ^ 鈴木八郎は「かなりの独断と偏見があったように思う」としている[7]
  7. ^ 1933年刊行の『正則寫眞術』に於いても“『ライカ寫眞器』が刻苦數年の努力により、その特徴が認められると、ペッギイ、コンタックス、……等々のライカ型の寫眞器が續々と産れました。然し、現在の處、元祖のライカを凌駕するものは産れて居りません[9]”などと同様の事を記している。
  8. ^ ただ、コンタックスで撮った写真にはデータが附されているのに、ライカには一切附されていないと言う差別化が図られてはいる。
  9. ^ 佐和九郎は1935年刊行の『撮影の實際』において、コンタックスに関して“ライカの成功を羨望して産れたと看做してよい、同型式の寫眞器 [注釈 7]……[10]”とも、“普通一般の用途に對しては、『ライカに出来ることなら、コンタックスでも出来ます。コンタックスで出来ることなら、ライカでも出来ます。ライカならではとかコンタックスでなるが故に、……などといふ言葉をウカウカ使ふことが出来ないほど、兩者は、極めて接近したものであります。[11]”とも書いている。またこの本ではライカで撮影した写真をコンタックスで撮った写真よりも多く掲載[注釈 8]し、内部機構などの図解すら載せている[12]。そして1937年刊行の『小型カメラ寫眞術』では。ライカに対しては好意的コンタックスに対しては否定的な評価を下している一文“連續撮影の速度は。コンタックスのII型と比較してもライカが優る。その比は10:12くらゐであろう。然し、ライカには『連續撮影装置』があり、これを使えば斷然迅くなる[13]”があり、他方ライカだけでなく、コンタックスに対しても否定的な評価を下している一文“コンタックスやライカの如き精密小型カメラでも、その附属フアインダーには、やはり幾多の缺點があり、これのみを頼つたのでは、振りの場合が多く、エキストラのフアインダーの幾つかを備へておかなくては、その優秀な機能を充分に發揮させることが不可能である[14]”がある。また“(『ライカ』と『コンタックス』)この兩者には、それぞれ特徴があり、長所があり、短所がある。槪括的にいづれが優ると判斷を下だせない。判斷を下だせるものではないのである[15]”とも書いている。『アサヒカメラ』の記事を書いた“K.K.K”なる匿名氏が佐和九郎本人(もしくは中心人物)であるとするならば、それと相矛盾する態度である事になる。それだけでなく著作によって「ライカ」及び「コンタックス」に対する姿勢が日和見になっているとの譏りを免れえない。
  10. ^ 佐和九郎を“先生”と呼んでいたアマチュア写真家の田頭良助は、1937年に発刊した著書のなかにおいて、“ライカとコンタックスを相當愼重に比較研究して來た。その結果、私の希望、私の目的にもつとも適してゐるものと認めて、コンタックスを採用した。しかし、これは決してライカよりコンタックスの方が優秀であるといふことを意味してはゐない。ライカも亦コンタックスに得られない特性をもってゐる。もつと公平にいへばそれぞれ一得一失を持つてゐるので……”[16]と書いており、同じコンタックス・シンパでもかなり中立的な見方をしている。
  11. ^ 同じ1936年3月に浅沼商会が「最新型コンタックスの進歩したる点」[18]なるコンタックス擁護の論陣を張った小冊子を発行している。
  12. ^ 日本においてライカの評価がまだ定まていなかった頃、つまり日本に於いてかなり初期からライカを使って撮影をし、日本で初めて書名に“ライカ”を附した著書「私のライカ」(1933年刊行)がある吉川速男や「月刊ライカ」の主幹だった堀江宏は何故かこの小冊子には寄稿していない。
  13. ^ 例えば『コンタックスは全金属幕シャッターと言いながら、その実布紐引きである』など
  14. ^ ただし、この著書ではライカの扱いが抑も悪く、項目が立てられている所でも扱き下ろしが主で、しかもライカのレンズは取り上げられておらず、口絵にもライカのカメラが挙げられていないなどかなり偏った内容になっている。
  15. ^ ライカIIIc、IIIf向けに“ライカピストル”に代わって作られた“ライカビット”の事
  16. ^ エルンスト・ライツの日本総代理店である「シュミット商会」ですら“ライカIV型”に関しては知らなかったのだから、市井の佐和九郎が事の次第を存じなくとも止むを得ないとも言える。だが、当時エルンスト・ライツが新型の自動露出計の特許を取得し、これを装備した新型を出すのではないかとの取り沙汰があったのも事実[22]で、とすれば佐和九郎が全くの善意であったとはいえなくなる。
  17. ^ ここに挙げられている4項目に就いてはライカM3でその他の缺點などと共に改められている。M3は戦前にはすでに着想されており、1935年~36年(正に“ライカ・コンタックス論争”がピークを迎えていたその時)には試作品が造られていた。それはライカIV型とされるものであるが、試作のみで実際に製造されることはなかった[21]。試作品のみでその事実が公開されていなかったのだから、佐和九郎がその事実を知り得なかったであろう事は容易に想像できる[注釈 16]が、結果としてこの“4項目の改善要望”は全くの的外れに終わった事になる。
  18. ^ 『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』では、この文節をその次に挙げられている“使う側からの4項目の改善要望”の前置きとしている[20]が、その4項目[注釈 17]
    『A…裏蓋が開くこと。
    B…距離計とファインダーを単一窓にすること。
    C…カメラ上部のゴチャツキを整理して、外観を単純化させること。
    D…シャッター速度を単一調節式にすること。
    などは、改めてもらいたい(原文ママ)[23]
    はあくまでエルンスト・ライツに対して言っているのであり、この文節と結びつけるのには無理がある。
  19. ^ 最初のコンタックスが非常に扱いづらく、それがライカと差ができてしまった要因の一つである事や、チャージ後にシャッタースピードを変えると言う誰しもが普通に撮っていて遣りがちなことで壊れてしまう欠点がある事には目を背けており、公平な評価を下しているとはいえない
  20. ^ 1954年4月3日にエルンスト・ライツは、レンジファインダー機の最高傑作とされ、日本のカメラメーカーが一眼レフにシフトチェンジするきっかけとなった、“ライカM3”をフォトキナで発表しているが、これは『カメラとレンズ』の刊行の2か月足らず後のことである。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 安藤嘉信『クラシックカメラ博物館 pp.149』日本カメラ社、2003年。 
  2. ^ a b 『カメラレビュー クラシックカメラ専科No.19 LEICA BOOK(ライカ・ブック) '92 pp.118-119』朝日ソノラマ、1991年。 
  3. ^ a b c d 『カメラレビュー クラシックカメラ専科No.50 ライカ・ブック'99 ライカのメカニズム pp.131』朝日ソノラマ、1999年。 
  4. ^ a b c 中川一夫『復刻版 ライカの歴史 pp.37-38』写真工業出版社、1994年。 
  5. ^ a b c 『カメラレビュー クラシックカメラ専科No.2 名機105の使い方 pp.12』朝日ソノラマ、1977年。 
  6. ^ 『アサヒカメラ2005年5月号特別付録 -あのライカvsコンタックス論争をここに復刻!』p.4-9(p.226-231)
  7. ^ 『クラシックカメラ専科No.2 名機105の使い方』p.82
  8. ^ カメラの触感 - "ライカとコンタックスとどちらがよいか?"”. 2021年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月25日閲覧。
  9. ^ 『正則寫眞術』p.94。
  10. ^ 『アルス最新寫眞大講座3 撮影の實際』p.147。
  11. ^ 『アルス最新寫眞大講座3 撮影の實際』p.147-148。
  12. ^ 『アルス最新寫眞大講座3 撮影の實際』p.143-145。
  13. ^ 『アマチュア寫眞講座9 小型カメラ寫眞術』p.221。
  14. ^ 『アマチュア寫眞講座9 小型カメラ寫眞術』p.162。
  15. ^ 『アマチュア寫眞講座9 小型カメラ寫眞術』p.219。
  16. ^ 『カメラの使い方全集4 コンタックスの使ひ方』p.9-10。
  17. ^ The Classi Camera - "降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ -ライカ VS コンタックス論争-"”. 2017年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月12日閲覧。
  18. ^ ARCHIV ZEISS/EXAKTA - "研究論文 「戦前から戦中期に於ける日本の高級35ミリ精密カメラ開発の過程 pp.3 [昭和初期の日本の写真業界と「ライカ・コンタックス論争」"]”. 2017年4月30日閲覧。
  19. ^ a b c d e f g 佐和九郎『佐和写真技術講座2 カメラとレンズ pp.168-170』アルス、1954年。 
  20. ^ 『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.26。
  21. ^ 『復刻版 ライカの歴史』p.188-189。
  22. ^ 『月刊ライカ THE LEICA MONTHLY 1934年10月号』p.120-121。
  23. ^ 『佐和写真技術講座2 カメラとレンズ』p.170。
  24. ^ a b c d e 佐和九郎『佐和写真技術講座2 カメラとレンズ pp.303-305』アルス、1954年。 

参考文献

[編集]
  • 『月刊ライカ THE LEICA MONTHLY 1934年10月号』アルス、1934年。
  • 『クラシックカメラ専科No.2、名機105の使い方』朝日ソノラマ、1977年。
  • 『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』朝日ソノラマ、1991年。
  • 『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』朝日ソノラマ、1999年。
  • 『アサヒカメラ 2005年5月号特別付録、あのライカvsコンタックス論争をここに復刻!』朝日新聞社、2005年
  • 佐和九郎『正則寫眞術』アルス、1933年。 
  • 佐和九郎『アルス最新寫眞大講座3 撮影の實際』アルス、1935年。 
  • 佐和九郎『アマチュア寫眞講座9 小型カメラ寫眞術』アルス、1937年。 
  • 田頭良助『カメラの使ひ方全集4 コンタックスの使ひ方』アルス、1937年。 
  • 佐和九郎『佐和写真技術講座2 カメラとレンズ』アルス、1954年。 
  • 中川一夫『復刻版 ライカの歴史』写真工業出版社、1994年。ISBN 4-87956-039-1 
  • 安藤嘉信『クラシックカメラ博物館』日本カメラ社、2003年。ISBN 4-8179-2058-0