ヨーゼフ・アールパード・ハプスブルク=ロートリンゲン
表示
ヨーゼフ・アールパード Joseph Árpád | |
---|---|
ハプスブルク=ロートリンゲン家 | |
2009年 | |
全名 |
一覧参照
|
称号 | オーストリア大公ほか(非公式) |
出生 |
1933年2月8日 ハンガリー王国、ブダペスト |
死去 |
2017年4月30日(84歳没) スペイン、マドリード |
配偶者 | マリア・ツー・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク |
子女 |
一覧参照
|
父親 | ヨーゼフ・フランツ・フォン・エスターライヒ |
母親 | アンナ・フォン・ザクセン |
ヨーゼフ(ヨージェフ)・アールパード・ベネディクト・フェルディナント・フランツ・マリア・ガブリエル・ハプスブルク=ロートリンゲン(Joseph (József) Árpád Benedikt Ferdinand Franz Maria Gabriel Habsburg-Lothringen, 1933年2月8日 ブダペスト - 2017年4月30日 マドリード)[1][2][3]は、ハプスブルク=ロートリンゲン家のハンガリー支流当主(1962年 - 2017年)。
生涯
[編集]1933年2月8日、オーストリア大公ヨーゼフ・フランツと妻のザクセン王女アンナの間に、第4子・長男として生まれた。
1944年に家族とともにハンガリーを出国し、生涯の大半をポルトガルで過ごした[4]。リスボン大学経済学部を卒業。
1977年より40年間、ヴィテーズ騎士団総長を務めた。死後、次男ヨーゼフ・カール(1960年 - )が後継の騎士団総長となった。
結婚と子女
[編集]1956年、レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク侯家家長カールの長女マリア(1935年 - 2018年)と結婚した。8月25日に民事婚を行い、9月12日に西ドイツ・ヴェルトハイム郊外の小村ブロンバッハにおいて、宗教婚を挙げた[5]。妻との間に8人の子供がある[4][6]。
- ヨーゼフ・カール(1957年)- 生後1日で死去
- モニカ=イロナ(1959年 - )- 1996年シャルル・ド・ランビュールと結婚
- ヨーゼフ・カール(1960年 - )- 1990年ホーエンベルク女侯マルガレーテ[注釈 1]と結婚
- マリア・クリスティーネ(1963年 - )- 1988年ライモント・ファン・デル・メイデと結婚
- アンドレアス=アウグスティヌス(1965年 - )- 1994年ハッツフェルト=ドーンホーフ女伯マリー=クリスティーネと結婚
- アレクサンドラ・リディア(1967年 - )- 1999年ウィルヘルムス・デ・ウィットと結婚
- ニコラウス・フランツィスクス(1973年 - )- 2002年エウヘニア・デ・カロンヘ・イ・グレアと結婚
- ヨハネス・ヤコブス(1975年 - )- 2009年マリア・ガブリエラ・モンテネグロ・ビリャミサルと結婚
栄典
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ archiduc Joseph-Arpad de Habsbourg-Lorraine, chef de la Maison palatine de Hongrie (1933-2017)
- ^ Muere en Madrid el archiduque José Árpád de Habsburgo-Lorena.
- ^ Muere en Madrid el archiduque José Árpád de Habsburgo-Lorena. Obituary by Count Miklós Cseszneky
- ^ a b Szőnyi Szilárd (2017年4月5日). “A magyarrá lett Habsburg: elhunyt József Árpád főherceg, Alcsút egykori ura”. Heti Válasz 2019年12月18日閲覧。
- ^ Almanach de Gotha (2018), 'Austria', Pages 42-86
- ^ Burke's Royal Families of the World Vol 1. Page 22.
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、ヨーゼフ・アールパード・ハプスブルク=ロートリンゲンに関するカテゴリがあります。
名誉職 | ||
---|---|---|
先代 ファルカシュ・フェレンツ |
ヴィテーズ騎士団総長 1977年 - 2017年 |
次代 ヨーゼフ・カール・ハプスブルク=ロートリンゲン |