ユーディト・フォン・バイエルン (シュヴァーベン大公妃)
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ユーディト・フォン・バイエルン Judith von Bayern | |
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出生 |
1100年ごろ 神聖ローマ帝国 バイエルン公領 |
死去 |
1130/1年2月22日 |
埋葬 | 神聖ローマ帝国、ロルヒ修道院 |
配偶者 | シュヴァーベン大公フリードリヒ2世 |
子女 |
フリードリヒ1世 ベルタ |
家名 | ヴェルフ家 |
父親 | バイエルン公ハインリヒ9世 |
母親 | ヴルフヒルト・フォン・ザクセン |
宗教 | キリスト教カトリック |
ユーディト・フォン・バイエルン(ドイツ語:Judith von Bayern, 1100年ごろ - 1130/1年2月22日)は、シュヴァーベン大公フリードリヒ2世の妃[1]。
生涯
[編集]ユーディトはバイエルン公ハインリヒ9世の娘である。1119/20年にシュヴァーベン大公フリードリヒ2世と結婚した。フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の外孫にあたる。1122年に後に神聖ローマ皇帝となるフリードリヒ1世が、1123/4年には娘ベルタが生まれた[1]。この2人以外の子女の記録はない[1]。
父ハインリヒ9世は、1125年の国王選挙で特別な役割を果たした。最初ハインリヒ9世は婿であるシュヴァーベン大公フリードリヒ2世の立候補を促したが、ふさわしい候補者について議論する中で考えを変え、ザクセン公ロタールを推し、ロタールがローマ王ロタール3世となった[2]。
ユーディトは、義父フリードリヒ1世が寄贈したロルヒ修道院内の墓所に埋葬された[3]。1475年に修道院長ニコラス・シェンク・アルベルクが全てのシュタウフェン家の墓を開け、修道院教会の身廊の墓に移した[3]。ユーディトの心臓はヴァルブールのベネディクト会修道院に夫フリードリヒ2世およびその2番目の妃アグネス・フォン・ザールブリュッケンとともに埋葬されている可能性があるが[4]、それらの墓は現在修道院教会内で見つけることはできない[3]。
子女
[編集]以下の2人の子女をもうけた。
- フリードリヒ1世(1122年 - 1190年) - ローマ王(1152年 - 1190年)、神聖ローマ皇帝(1155年 - 1190年)
- ベルタ(1123/4年 - 1194/5年) - ロレーヌ公マチュー1世と結婚
脚注
[編集]- ^ a b c Hansmartin Decker-Hauff: Das Staufische Haus. In: Württembergisches Landesmuseum (Hrsg.): Die Zeit der Staufer. Geschichte – Kunst – Kultur. Stuttgart 1977, Band III, p. 349 & p. 352
- ^ Knut Görich: Friedrich Barbarossa. Eine Biographie. München 2011, p. 52
- ^ a b c Peter Koblank: Staufergräber. Nur wenige der prominentesten Staufer sind in Deutschland bestattet. on stauferstelen.net. Retrieved September 10, 2014.
- ^ Karl Rudolf Schnith: Mittelalterliche Herrscher in Lebensbildern. Von den Karolingern zu den Staufern. Graz 1990, p. 263