コンテンツにスキップ

ヤマブキオー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヤマブキオー
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1970年4月11日
死没 1984年8月6日[1]
パーソロン
アサマヒカリ
母の父 ヒカルメイジ
生国 日本の旗 日本栃木県黒磯市
生産者 鍋掛牧場
馬主 清水一郎
調教師 森末之助(東京美浦
競走成績
生涯成績 47戦20勝
獲得賞金 2億9476万5800円
テンプレートを表示

ヤマブキオー日本競走馬。2022年現在、ハクチカラオジュウチョウサンと並ぶ日本中央競馬会での通算最多勝利記録(20勝)を持つ。

解説

[編集]

パーソロンの中期の代表産駒として知られ、故障がちながら、1972年のデビューから1978年の引退(有馬記念15着)まで息の長い活躍をした。典型的な中距離馬で、コースの1800 - 2000メートルの距離を得意とし、昭和の名マイラーとの異名を取った。また、斤量負けしないタイプで、オープン特別の巴賞で62キログラムを背負って勝利し、直後の函館記念でも63.5キログラムの斤量を克服し最後の直線で鋭く抜け出し勝利している。

おもな勝利は中京記念ダービー卿チャレンジトロフィー中山記念京王杯スプリングハンデキャップ金鯱賞、函館記念。ほか地方競馬招待競走にも優勝している。当時森末之助厩舎には4人の騎手が在籍しており[2]、そのうち蓑田早人で中京記念・函館記念、小林常泰でダービー卿チャレンジトロフィー、徳吉一己で中山記念・京王杯スプリングハンデキャップ・金鯱賞を制した。重賞を6勝したが、旧八大競走には縁がなかった。

クラシック競走には出走していないが、同期のハイセイコータケホープ引退2走前の対決であった1974年11月9日の東京競馬場芝1800メートルの平場オープンで、2頭を差し置いてレースを制したのも同馬である[3]。当時は1開催に1、2レース設定されていた平場オープン戦に強かった(7勝)ため、「オープン大将」なる愛称でも知られた。

1979年1月15日に東京競馬場で引退式が行われ[4]、引退後は十勝軽種馬農協に寄贈され[4]種牡馬となった。1983年に受精能力が突如低下し、のちに睾丸の病気が判明[1]。1984年8月6日、心臓麻痺のため繋養先の帯広畜産大学で急死した[1]

血統表

[編集]
ヤマブキオー血統トウルビヨン系 / Avena〈プリメロ〉4×4=12.50%、Tourbillon5×5=6.25%〈父内〉) (血統表の出典)

*パーソロン
Partholon
1960 鹿毛
父の父
Milesian
1953 鹿毛
My Babu Djebel
Perfume
Oatflake Coup de Lyon
Avena
父の母
Paleo
1953 鹿毛
Pharis Pharos
Carissima
Calonice Abjer
Coronis

アサマヒカリ
1965 鹿毛
ヒカルメイジ
1954 黒鹿毛
Bois Roussel Vatout
Plucky Liege
*イサベリーン Canon Law
Legal Tender
母の母
アサマフジ
1959 鹿毛
*ゲイタイム Rockefella
Daring Miss
キヨハ *プリメロ
第弐オーイエー F-No.3-e


脚注

[編集]
  1. ^ a b c 日本中央競馬会優駿』1985年10月号、p.174
  2. ^ 原良馬 (2009年5月25日). “第53回 心に残る名馬たちNo.11 ヤマブキオー”. 競馬かわらVAN(リレーコラム). JRA-VAN. 2011年7月25日閲覧。
  3. ^ このレースは秋の天皇賞への重要なステップレースで、8頭立てではあったものの、ヤマブキオー・ハイセイコー・タケホープの3頭以外にも、前年の有馬記念の覇者ストロングエイトをはじめ、ディクタボーイメジロスイセイの重賞勝ち馬が出走するという、下手な重賞競走よりもメンバーの揃った一戦であった。またレースは関西地区の競馬中継でも同時中継された。
  4. ^ a b 『優駿』1979年3月号、pp.84-85

外部リンク

[編集]