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モーリス・ドカーニュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モーリス・ドカーニュ
Maurice d'Ocagne
レジオンドヌール勲章コマンドゥール授与時(1931年8月)
人物情報
別名 Philbert du Plessis
Pierre Delix
Philibert Maurice d’Ocagne
生誕 Philbert Maurice d’Ocagne
(1862-03-25) 1862年3月25日
フランスパリ10区
死没 (1938-09-23) 1938年9月23日(76歳没)
ル・アーヴル
出身校 リセ・コンドルセ
リセ・シャプタル英語版
エコール・ポリテクニーク
両親 モーティマー・ドカーニュ
ポーリーン・マリエ・ネイ
子供 ピエール・ドカーニュ
学問
研究分野 数学工学教育学随筆土木工学教授
研究機関 Nivellement général de la Franceフランス語版 (1890-1901)
エコール・ポリテクニーク (1912-1920)
エコール・ナショナル・ポン・ゼ・ショセ (1893-1901)
主要な作品 Nomographie
学会 フランス祖国同盟 (1898-1900)
科学アカデミー (1922)
アメリカ芸術科学アカデミー (1925)
フランス数学会
主な受賞歴 ル・コンテ賞英語版フランス語版 (1892)
レジオンドヌール勲章シュバリエ (1894)
ポンスレ賞 (1902)
レジオンドヌール勲章オフィシエ (1917)
レジオンドヌール勲章コマンドゥール (1931)
ルーヴァン・カトリック大学名誉博士号
教育功労章オフィシエ
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フィルベール・モーリス・ドカーニュ。

フィルベール・モーリス・ドカーニュ (ドカニュー、: Philbert Maurice d'Ocagne (1862-03-25) 1862年3月25日1938年9月23日(1938-09-23) )は、フランスの工学者数学者ノモグラムと呼ばれる代数方程式の視覚的な計算方法を発明した。フランスの道路の模様にクロソイド曲線を導入した[1]

経歴

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1862年、パリで出生し、フォンタンジュ英語版リセ(現在のリセ・コンドルセ)で中等教育を受け、シャプタル・カレッジ英語版で学んだ。1877年、初めて数学の作品を発表した。1879年には Nouvelles annales de mathématiques への寄稿も行っている。1880年、エコール・ポリテクニークに入学した。彼は数学分野において、数多の作品を発表した[2]。1885年から6年間工学者としてロシュフォールシェルブール英語版 の水道整備のサポートを行い、その後はポントワーズセーヌ=エ=オワーズ英語版で働いた。1882年から科学アカデミーJournal de l'École polytechniqueフランス語版Bulletin de la Société Mathématique de France英語版Archiv der Mathematik und Physikドイツ語版American Journal of Mathematics英語版へ数学記事を寄稿した。1893年にエコール・ポリテクニークのチューター(répétiteur)、1894年に国立土木学校の教授になった。1891年、ノモグラムに関する論文を発表した[2]

1901年、フランス一般調査の副ディレクターに指名された。1908年、チーフエンジニアに抜擢され、1911年にはフランス工部省の地図・計画・精査部門の長に任命された。1920年に道路・橋監察官になった。1922年、フランス科学アカデミーに入会した。

1893年、技術学校の教員として天文学測地学の講師を務めた。1901年、フランス数学会会長に就任した。1912年にエコール・ポリテクニークの幾何学教授になった。

1898年、フランス祖国同盟に参加したが、ブシネスク英語版とともに1年で脱退した[3]

第二次世界大戦下、ドカーニュの開発した塑性変形超越方程式英語版の近似解の発見技術によって、フランス銃製造者がオートフレッタージ英語版の生産を向上し、大砲のパーツの製造量を増加させることに成功した[2]

家族

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ドカーニュの家系は8世紀まで遡ることが可能で、ノルマンディーアランソンの Plessis 家から来ている。 故にドカーニュは幾つかの科学出版物で Philbert du Plessis という雅号を用いていた[2]。父モーティマー・ドカーニュ(Mortimer d'Ocagne)は経済・財政を題目とする作品を数多く発表し、高等教育の書籍 Les Grandes Ecoles de France を書いた[4]Revue Britannique の劇評家として、毎晩劇場に足を運び、どの初演も見逃さなかった。オペラの寄付者長としても活躍し、1919年に98歳で没した。

フレデリック=デジレ・イルマシェ英語版は義理の父[5]

受賞歴

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1956年以後、パリ14区のある道が彼の名を冠してモーリス・ドカーニュ通りフランス語版と呼ばれるようになった。

主な作品

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出典

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  1. ^ Frédéric Vivien (2008-11). IREM de Rouen. ed. Géométrie et raccordements de routes en Haute-Normandie. pp. 93. ISBN 978-2-86239-095-6. https://publimath.univ-irem.fr/numerisation/RO/IRO08003/IRO08003.pdf 
  2. ^ a b c d O'Connor. “Philbert Maurice d'Ocagne”. MacTutor History of Mathematics Archive. 2014年4月12日閲覧。
  3. ^ Konstantinos Chatzis. “Un « ingénieur-savant » tardif : le cas de Philbert Maurice d'Ocagne (1862-1938)”. Séminaire d'histoire des mathématiques de l'IHP 3. https://cirmath.hypotheses.org/files/2015/03/S%C3%A9ance-IHP-20-mars-2015-Exos%C3%A9-de-K.-Chatzis.pdf. 
  4. ^ P. Humbert (1939). “Maurice d’Ocagne (1862–1938)”. Ciel et Terre 5: 108. https://adsabs.harvard.edu/full/1939C%26T....55..108H. 
  5. ^ K. Chatzis (2015-3-20). “Un « ingénieur-savant » tardif : le cas de Philbert Maurice d'Ocagne (1862-1938)”. séminaire d’Histoire des mathématiques de l’IHP. 
  6. ^ Base de données Léonore”. 2024年12月27日閲覧。

参考文献

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  • Jacques Boyer, Sciences et Voyages rend visite au géomètre d'Ocagne, article in « Sciences et voyages », IVe année, no 204
  • Travaux d'Ocagne sur le site S. Mehl
  • Dictionnaire biographique Imago Mundi

外部リンク

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