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モチ・イェベ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

モチ・イェベMöči Yebe, モンゴル語: Мужи Яя、生没年不詳)は、チンギス・カンの次男のチャガタイの息子で、モンゴル帝国の皇族。『集史』ではموجی يبهMūjī Ībeと表記される。

概要

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チャガタイはモンゴル部族の有力姻族であるコンギラト部からイェスルン・ハトゥンを娶り、これを正妻としていた。『集史』によるとモチ・イェベの母親は元来イェスルン・ハトゥンに仕える女奴隷であり、母親の身分が低かったためにチャガタイはモチ・イェベの存在を軽視し与えられた分地も少なかったという。

『集史』はある箇所ではモチ・イェベをチャガタイの長男と記し、また別の箇所ではイェスルン・ハトゥンの子のモエトゥケンをチャガタイの諸子の中で最年長とも記している。これは庶出の息子を数にいれるかどうかの違いに起因するものであり、チャガタイの諸子全体の中ではモチ・イェベが最年長であり、チャガタイの嫡子の中ではモエトゥケンが最年長であったと見られている[1]。実際に、チャガタイ・ウルスの後継者として論じられているのはモエトゥケン、ベルガシ、イェス・モンケら嫡出の息子のみであり、これらの兄にあたるモチ・イェベは候補にすら挙げられていない。

1236年丙申)、オゴデイの三男のクチュを総司令とする南宋遠征が始まると、「宗王穆直」なる人物がオングト部出身の将軍アンチュルとともに四川方面に侵攻したことが記録されているが、この「穆直」は音の一致やアンチュルがチャガタイ家に仕える千戸であることなどからモチ・イェベを指すものと考えられている[2]。アンチュルは砲兵を先鋒として宕昌を攻略し、また兵糧攻めによって文州を攻略した。また、この頃吐蕃の僧長勘陁孟迦らを招聘して銀符を与えた。アンチュルが龍州を攻略すると、四川方面の諸軍は再結集して要衝の成都を攻撃し、遂にこれを陥落させた。しかし、モンゴル軍が一度引き上げた後、成都は再びモンゴルに背いて南宋に帰属している[3]

1237年丁酉)、アンチュルはモチ・イェベに「隴地方の州県はすでに平定されましたが、人心はなお背く気持ちがあります。西の漢陽は隴と蜀を結ぶ要衝です。南宋やチベットが侵入するのに便利なところです。優秀な武将を得て、配置してこの地を鎮守すべきです」と献策した。これに対し、モチ・イェベは「謀反の気持ちを抑え、侵入する敵を制することは良策である。しかし、汝アンチュル以外に替わるものはいない[4]」と述べて、千人隊長5名を分けてその地に派遣することとした[5][6]。これ以後、モチ・イェベの家系が四川方面の経略に関わることはなかったが、アンチュル家は引き続きこの方面の経略に加わった。

子孫

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チャガタイの庶子であるモチ・イェベの家系は嫡庶の区別に厳しいモンゴル社会において軽視され、その子孫の事蹟についても殆ど記録がない。ただ、モチ・イェベの孫のバイダカン大元ウルスに所属する安定王家の始祖ではないかと推測されており、安定王家はに入っても安定衛としてコムルチュベイ王家(哈密衛)とともに存続している[7]

チャガタイの子モチ・イェベの家系

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  • チャガタイ(Čaγatai,察合台/چغتاىChaghatāī)
    • モチ・イェベ(Möči Yebe,موجی يبهMūjī Ībe)
      • テクシ(Tekshi,تکشیTekshī)
      • ネグデル(Negüder,نکودارNekūdār)
      • アフマド(Aḥmad,احمدAḥmad)
      • テムデル(Temüder,تمودارTemūdār)
      • コタン(Qotan,قوتانQūtān)
      • チェチェ(Cheche,چاچهChāche)
      • チェチェクトゥ(Chechektü,چاچکتوChāchektū)
      • イシャル(IshalایشالYīshāl)

脚注

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  1. ^ 宇野2012,183-184頁
  2. ^ 松田1992,72-73頁
  3. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「丙申、大軍伐蜀、皇子出大散関、分兵令宗王穆直等出陰平郡、期会於成都。按竺邇領炮手兵為先鋒、破宕昌、残階州。攻文州、守将劉禄、数月不下、諜知城中無井、乃奪其汲道、率勇士梯城先登、殺守陴者数十人、遂抜其城、禄死之。因招来吐蕃酋長勘陁孟迦等十族、皆賜以銀符。略定龍州。遂与大散軍合、進克成都。師還、而成都復叛」
  4. ^ 訳文は松田 1992,73頁より引用
  5. ^ ただし、南宋に対して蒙古・漢軍混成軍=タンマチが駐屯して相対するという体制は河南地方でも実施されており、アンチュル独自の発案ではなく、モンゴル帝国全体の対南宋戦略の一環として定められたものであると考えられている(松田1992,75-77頁)
  6. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「丁酉、按竺邇言於宗王曰『隴州県方平、人心猶貳、西漢陽当隴蜀之衝、宋及吐蕃利於入寇、宜得良将以鎮之』。宗王曰『安反側、制寇賊、此上策也、然無以易汝』。遂分蒙古千戸五人、隷麾下以往。按竺邇命侯和尚南戍沔州之石門、朮魯西戍階州之両水、謹斥候、厳巡邏、西南諸州不敢犯之」
  7. ^ 杉山2004,305-308頁

参考文献

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  • 宇野伸浩「『集史』 第 1 巻 「モンゴル史」 の諸写本におけるチャガダイ・カンの息子達の順序の混乱」『人間環境学研究』、2012年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年