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ムルターン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムルターン
ملتان
Multan
位置
ムルターンの位置(パキスタン内)
ムルターン
ムルターン
ムルターン (パキスタン)
ムルターンの位置(西南アジア内)
ムルターン
ムルターン
ムルターン (西南アジア)
地図
座標 : 北緯30度11分24秒 東経71度28分16秒 / 北緯30.19000度 東経71.47111度 / 30.19000; 71.47111
行政
パキスタンの旗 パキスタン
  パンジャーブ州
 県 ムルターン県
 市 ムルターン
City Nazim Mian Faisal Mukhtar
地理
面積  
  市域 3,721 km2 (1,437 mi2)
標高 710 m (2,329 ft)
人口
人口 (2015年現在)
  市域 3,117,000人
  市街地 2,050,000人
その他
等時帯 パキスタン標準時 (UTC+5)
市外局番 061

ムルターンMultanウルドゥー語: ملتان‎)は、パキスタンパンジャーブ州 ムルターン県の県都である。ムルタンと表記されることもある。人口380万人(1998年の国勢調査)でパキスタン第6の都市にあたる。インダス川支流のチェナーブ川の東に位置し、カラーチーから陸路で966 km,地理的にはだいたいパキスタンの中心部にあり,道路,鉄道,空路などの集まる交通の要衝である。

ムルターンは「ピール(スーフィーの聖者)と聖堂の街」として有名で,街にはバザール,モスク,聖堂や壮麗な墓廟がひしめいている。

歴史

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古代

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ムルターンは、南アジアの中でも最古の都市のひとつである。サンスクリットで、Mūlasthānという言葉が現在の都市の名前の由来である。これまでの考古学調査からムルターンは、モヘンジョ・ダロあるいはハラッパーなどと同時期に興った都市の1つであると考えられている。古代インドの叙事詩マハーバーラタ』では、Malāvaで登場した。

ムルターンを最初に征服した外国の勢力はアレクサンドロス3世であるといわれている。その後、ムルターンは、グプタ朝の領土の一部になった。

イスラーム襲来

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712年シンド人に引きつられる形でイスラーム勢力がムルターンに侵攻した。イスラーム勢力を率いたのは、ムハンマド・ビン・カースィム英語版en:Muhammad bin Qasim)であった。カースィムの侵攻により、ムルターンにもイスラームがもたらされることとなったが、ムルターンはそれでもなお、一独立勢力として維持してきた。しかし、1005年ガズナ朝マフムードMahmud of Ghazni)であった。マフムードは、ムルターンにあった太陽寺院や偶像の破壊を実施した。

マフムード1世。ムルターンを征服した。
1150年代に遡るシャー・ガルデズ墓廟

モンゴル襲来

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ムルターンの中世は、スーフィズムの中心であったことが分かっている。その証は、現在のムルターンには数多くの聖者廟(ダルガー)が残されていることから明らかである。例えば、モンゴルの征服時代に、殺戮を止めるように説き伏せた聖者バハー・ウル・ハックのダルガー、「世界の柱」を意味するシャー・ルクネ・アーラム(建設は14世紀トゥグルク朝時代、もともとはトゥグルク朝の皇帝ギヤースッディーン・トゥグルクが自らの廟のために建設した)、1380年ごろに建設されたシャー・シャムス・タブレーズのダルガーなどである。

グジャラート・スルターン朝

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グジャラート・スルターン朝のスルターン、マフムード・シャー1世(マフムード・ベガダ)の治世に、ムルターンからロマニ系のムルターニー英語版グジャラートパンジャーブへ移住した。

ムガル帝国

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時代を経て、ムガル帝国の時代は200年間続いた。1735年には、当時、ムルターンを支配していたナワーブ・アブドゥル・サマド・ハーンの命令により、イドガー・モスクが建設された。

1735年創建のモスク

1757年には、アリー・ムハンマド・ハーンによって、アリー・ムハンマド・モスクが建設された。現在、ムルターンに残る建物の多くがこの時代に建設されたものである。当時のムルターンは農業生産が向上しており、このような建設事業が可能となった。

その後、しばらくの間、ムルターンは、アフシャール朝ナーディル・シャーの支配を受けたが、幸いにも破壊をまぬかれることができた。

ムルターンは、ムガル帝国の衰退を目撃することで、難しい時代を経験してきた。アフマド・シャー・ドゥッラーニーが創設したアフガン人王朝のドゥッラーニー朝が衰退すると、ムルターンはパシュトゥーン人の支配を受けた。

シク王国

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シク教徒は、パシュトゥーン人が支配するムルターン地方を攻撃し、パシュトゥーン人はムルターンの周辺に住むことを余儀なくされ、ムルターンはシク教徒が治めることとなった。しかし、シク教徒の支配は長く続くことはなかった。徐々にパンジャーブ地方にはイギリスが勢力を拡大していったのである。イギリスとシク教徒の間で戦闘が行われた(シク戦争)。

イギリス領インド帝国

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最終的にはイギリスが支配することとなった(British India)。

パキスタン

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1947年にパキスタンが独立すると、ムルターンはパンジャーブ州に所属することとなったが、植民地時代にはわずかに鉄道が建設されただけであり、独立当時のムルターンは、産業、病院大学といった社会的なインフラストラクチャーの全てが欠如していた。これらのインフラストラクチャーは、独立後、徐々に整備され、経済的に発展を遂げるようになった。

住民

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言語

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サライキ語母語者が最も多いが、パンジャーブ語母語者も多く、また国語ウルドゥー語も広く使用される。

1998年(国勢調査)[1]
言語 割合 話者数
1 サライキ語 42.2% 632,602人
2 パンジャーブ語 32.3% 485,232人
3 ウルドゥー語 23.5% 353,354人
4 その他 2.0% 29,429人
合計 1,500,617人

交通

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施設・歴史的建造物

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姉妹都市

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脚注

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  1. ^ 1998 tehsils data at the Demobase”. 2017年9月18日閲覧。

関連項目

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座標: 北緯30度11分24秒 東経71度28分16秒 / 北緯30.19000度 東経71.47111度 / 30.19000; 71.47111