ミカエル・ペルンフォルス
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基本情報 | ||||
国籍 | スウェーデン | |||
出身地 | 同・マルメ | |||
生年月日 | 1963年7月16日(61歳) | |||
身長 | 172cm | |||
体重 | 68kg | |||
利き手 | 右 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1985年 | |||
引退年 | 1996年 | |||
ツアー通算 | 4勝 | |||
シングルス | 3勝 | |||
ダブルス | 1勝 | |||
生涯通算成績 | 181勝161敗 | |||
シングルス | 140勝114敗 | |||
ダブルス | 41勝47敗 | |||
生涯獲得賞金 | 1,356,751 アメリカ合衆国ドル | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | ベスト8(1990) | |||
全仏 | 準優勝(1986) | |||
全英 | 4回戦(1986・87) | |||
全米 | 4回戦(1989) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全仏 | 3回戦(1988) | |||
全米 | 2回戦(1988) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 10位 | |||
ダブルス | 32位 | |||
ミカエル・ペルンフォルス(Mikael Pernfors, 1963年7月16日 - )は、スウェーデン・マルメ出身の元男子プロテニス選手。1986年の全仏オープンテニス男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは10位。身長172cm、体重68kg、右利き。「パーンフォース」の表記も多く見られる。
全米学生テニス選手権の優勝を経て、1985年にプロ入り。同年10月にブラジルの「ポルト・アレグレ」の大会でプロ初優勝。1986年の全仏オープンでは、わずか3度目の4大大会出場であったが、ノーシードから破竹の快進撃で勝ち進んだ。2回戦で同じスウェーデンのステファン・エドベリを 6-7, 7-5, 6-3, 2-6, 6-4 のフルセットで破る番狂わせに始まり、準々決勝では前年度のウィンブルドン優勝者ボリス・ベッカー、準決勝では地元フランス期待のアンリ・ルコントを破って決勝に進んだ。しかし、決勝戦では当時の世界ランキング1位であったイワン・レンドルの前に何もできず、3-6, 2-6, 4-6 のストレートで完敗して準優勝に終わった。この当時、スウェーデンのテニス界はエドベリとマッツ・ビランデルの世界的な活躍で盛り上がりが続いていたが、無名の伏兵だったペルンフォルスの活躍も大きな反響を呼んだ。同年のウィンブルドンでも活躍し、大会前年優勝者ボリス・ベッカーとの4回戦まで進出する。全米オープンでは2回戦でソ連のアンドレイ・チェスノコフに敗退したが、この年にペルンフォルスは世界ランキングを一気に10位まで上げた。1986年度末の男子最終ランキングではスウェーデン勢としてビランデル、エドベリ、ペルンフォルスの3人が世界トップ10位以内に入り、当地のテニス界は大いに沸き立った。しかし、その後の全仏オープンでは運に恵まれず、1987年-1989年の3年連続で1回戦敗退に終わってしまう。
その後ペルンフォルスの好成績は少なかったが、1987年に「セイコー・スーパー・テニス」で来日したことがあり、準決勝でイワン・レンドルに 0-6, 2-6 で敗れた。1988年には男子テニスツアーで年間2勝を挙げたが、1988年9月中旬のアメリカ・ロサンゼルスの大会では、決勝戦で当時18歳のアンドレ・アガシを 6-2, 7-5 で破った優勝もある。
1990年の全豪オープンでベスト8に入った時は、4回戦で珍事があった。対戦相手のジョン・マッケンローが審判への暴言をやめなかったため、第4セットの途中(ペルンフォルスのスコア:1-6, 6-4, 5-7, 4-2 / すなわち、マッケンローがセット・カウント 2-1 とリード中)で主審から「失格」を言い渡されたのである。これに観客は憤り、試合会場を立ち去ってしまった。ペルンフォルスはハプニングから初の全豪準々決勝に進んだが、フランスのヤニック・ノアに 3-6, 5-7, 2-6 のストレートで敗れた。
ペルンフォルスは1996年4月のトーナメントを最後に現役を引退し、現在は35歳以上の現役引退選手を対象にしたシニア・ツアーに参戦している。
外部リンク
[編集]- ミカエル・ペルンフォルス - ATPツアーのプロフィール
- ミカエル・ペルンフォルス - デビスカップのプロフィール
- ミカエル・ペルンフォルス - 国際テニス連盟