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マーチ・86G

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マーチ・86G
カテゴリー グループC, IMSA GTP
コンストラクター マーチ・エンジニアリング
先代 マーチ・85G
後継 マーチ・87G
主要諸元
シャシー ハニカム構造炭素繊維によって補強されたアルミモノコック, 鋼管サブフレーム英語版
エンジン
ミッドシップ, 縦置きエンジン
トランスミッション ヒューランド 5速 LSD
主要成績
チーム
ドライバー
  • デイビー・ジョーンズ
  • ジョン・アンドレッティ
  • デヴィッド・ホッブス
  • ジョン・ワトソン
  • チームタイトル 0
    コンストラクターズタイトル 0
    ドライバーズタイトル 0
    初戦 1986年 マイアミGP
    出走優勝ポールFラップ
    55151
    テンプレートを表示
    マーチ86G・日産 (パーソンズ車)

    マーチ・86G (March 86G) は、マーチ・エンジニアリング作成の1986年グループCIMSA-GTP用汎用シャシである。

    概要

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    マーチ86Gシャシは全部で11台製作され、6台がIMSAを戦うマクラーレン・ノースアメリカのBMW-GTP用。1986年の全日本耐久選手権 (後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権) およびル・マン24時間レース参戦用に日産がマーチより4台購入 (うち1台はチーム・ルマンが購入)。残る1台がゼネラルモーターズ製エンジン (ビュイックブランド) を積んだ。日産用とBMW用、GM用はホイールアーチ等、外観も異なる。

    Chassis Car Brand(s) Years Ran Championship
    86G-1 BMW GTP 1986 IMSA Camel GT
    86G-2 BMW GTP 1986 IMSA Camel GT
    86G-3 BMW GTP 1986 IMSA Camel GT
    86G-4 BMW GTP - ビュイックホークGTP 1986, 1987, 1988 IMSA Camel GT
    86G-5 日産 R86V 1986–87 JSPC - WEC
    86G-6 日産 R86V 1986 JSPC - WEC
    86G-7 日産 R86V 1986–87 JSPC - WEC
    86G-8 日産 R86V 1986–88 JSPC - WEC
    86G-9 BMW GTP - ビュイックホークGTP 1988 IMSA Camel GT
    86G-10 BMW GTP - ビュイックホークGTP 1988 IMSA Camel GT
    86G-11 ビュイックホークGTP 1987–88 IMSA Camel GT

    日産R86V

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    1985年シーズンは「シルビアターボC」、「スカイラインターボC」の名前でレースにエントリーしていた日産のCカー (マーチ・85G/日産) だったが、1986年シーズンのマーチ86G/日産は「日産・R86V」の名でエントリーしている。この命名ルールを作成したのは日産自動車の大久保芳美[1]

    日産は前年に引き続き3.0L V型6気筒ターボエンジンVG30を搭載してグループCレースに参戦した。シャーシは86G-5から86G-8の4台を購入し、86G-5は当初ホシノレーシングに提供されたが、1986年ル・マン用に日産ワークスチーム (ニスモ) にリースされた。86G-6および86G-7は日産ワークスチーム (ニスモ) によって運営され、86G-7はハセミモータースポーツ、86G-8はパーソンズレーシングチーム(チーム・ルマン)に販売された[要出典]

    1986年4月6日に開催の全日本耐久選手権開幕戦「鈴鹿500km」がデビュー戦となり、まずはホシノレーシングの86G-5のみが参戦した。しかしプラクティス中のエンジン炎上により決勝レースには参加できず、実質的なデビューレースは第2戦富士1000km、チーム・ルマンのマシンが5位で完走している。

    86G-5はこの年が日産の初出場となるル・マン24時間に遠征しエースマシンとなるが、予選で24位を獲得した後、決勝は4時間ほどでギアボックスの故障でリタイヤとなった[2]。帰国後の国内耐久では4戦中3戦でフロントロウを独占する速さを見せたが、決勝ではリタイヤが多く一度も表彰台に立てなかった。

    1987年は、日産が主力マシンをV型8気筒VEJ30搭載のマーチ・87G (R87E) に移行したため、V型6気筒を搭載するマーチ86Gを使用するのはサテライトのチーム・ルマンのみとなったが、熟成不足のV型8気筒エンジン搭載車よりもむしろ好走を見せることも多く、WEC-JAPANでは3.2Lに拡大したアルミブロックVG30、和田孝夫のドライブで日本の自動車メーカーのエンジン搭載車初のポールポジションを獲得した (ただし決勝は通常のスチールブロックのVG30を使用)。最終戦富士500 kmでも連続ポールポジション獲得。決勝でも日産Cカーとして事実上初めて優勝争いに加わり過去最高の4位に入賞している。

    1988年もチーム・ルマンからル・マン24時間に遠征。JSPC第4戦以降はマーチ・88Gに移行したが、WEC-JAPANでは88Gとの2台体制でチーム・ルマンから参戦した。

    BMW GTP

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    BMW GTP

    シャーシナンバー、86G-1から86G-4までは、BMW IMSAチームによって購入され、BMW・GTPと名前が変更された。車は1986年のIMSA GTPクラスにエントリー、18号車がデイビー・ジョーンズジョン・アンドレッティ、19号車がジョン・ワトソンデヴィッド・ホッブスがドライブした。

    BMW GTP

    BMW North Americaは、1986年IMSA GT選手権、開幕戦デイトナ24時間レースでデビュー予定だった。しかし、ロードアトランタでのテスト中に火災が発生したため、完成した唯一の車はひどく損傷しレースは欠場した。BMW GTPは次戦マイアミグランプリでデビューした。ジョーンズ/アンドレッティ車は41周でクラッシュし25位、ホッブス/ワトソンは9位だった。セブリング12時間レースでは、BMW North Americaは3台の車を走らせる予定だったが、ボビー・レイホールの車が大きな事故に巻き込まれ、レースから欠場した。その後も苦戦が続いたが、ポートランド戦で、ワトソンとホッブスは総合4位でフィニッシュした。シアーズポイント戦では、アンドレッティとジョーンズは総合5位となった。そしてワトキンズ・グレン戦で、ジョーンズとアンドレッティは24秒差で2位のポルシェ・962に勝ち初勝利を収めた[3]。その後優勝は無く、ドライバーズチャンピオンシップでは、アンドレッティはGTPクラス22位、ジョーンズは25位、ホッブスとワトソンは28位だった[4]。しかし、BMWはシーズン終了後、IMSA GTPから撤退した。

    脚注

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    1. ^ 「特別編集「ル・マン。見果てぬ夢」『Racing On』、三栄書房、2012年、59頁。 
    2. ^ Le Mans 24 Hours 1986 - Photo Gallery - Racing Sports Cars”. 2020年5月14日閲覧。
    3. ^ International Motor Sport Association 1986”. 14.2.2007閲覧。
    4. ^ IMSA Camel GTP Championship 1986”. Driver Database. 20 September 2013閲覧。

    関連項目

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    外部リンク

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