マリナ・パパエリア
Μαρίνα Παπαηλία | |
プロフィール | |
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生年月日 | 1931年 |
出身地 | エジプト |
公称サイズ(時期不明) | |
身長 / 体重 | ― cm / ― kg |
活動 | |
モデル内容 | 一般、水着 |
備考 | ミス・ワールド1953で第3位入賞 |
モデル: テンプレート - カテゴリ |
マリナ・パパエリア(Myshimarina (Marina) Papaelia, ギリシア語: Μαρίνα Παπαηλία, アラビア語: مارينا بابايليا、1931年頃 -)は、エジプトの女性モデル。ミス・ワールド1953で第3位入賞。
経歴
[編集]1953年、ミス・エジプト1953で準優勝。このとき優勝したアンティゴネー・コスタンダは、決勝の地ロンドンまでの旅費を負担できず、準優勝の彼女が派遣されることとなった。なお、コスタンダはミス・ワールド1954で優勝した[1]。
1953年10月19日、ミス・ワールド1953で第3位入賞。
人物・エピソード
[編集]Sally-Ann Fawcettの著書には、マリナは「非常に個性的な人物(a colourful character)」と記載されている。実際、ロンドン到着直後から個性的にふるまった。どうやら5種類の言語で侮辱行為が可能だったようで、結果的に彼女のルームメイト・デンマーク代表Ingrid Andersenはわずか一晩で部屋を換えてくれと要求した。ほかの誰もマリナとの相部屋を希望せず、部屋はマリナ専用となった[2]。
彼女の揺るぎなき自信は、間違いなくミスの王冠を取るという確信に基づいていた。ところが、決勝の途中から雲行きが怪しくなると彼女の行動も怪しくなる。水着審査の際、初め更衣室から出るのを拒んだ[3]。全員そろっての水着の集合写真にも遅刻した[4]。
最終的にデニス・ペリエ優勝が告げられると、結果を受け入れることができなかったのか、「ふざけんな!(Dont be stupid !)」と叫んでステージ上に倒れ、意識を失った[5]。この直前の有名な写真はフォトジャーナリストのThurston Hopkinsによって撮られた[6]。翌日、記者たちに「見てみなさいよ、あの顔、髪の毛、スタイル。ミス・ワールド、あの女臭えーよ!(Look at 'er face, zat hair, zat figure ! Mees World ! She steenk !)」と語った[5]。
出典
[編集]- ^ Sally-Ann Fawcett (2017-10-19) (英語). Mis-3-meanours: Second Runner-Up. Lulu.com. p. 36. ISBN 9780244936808
- ^ Sally-Ann Fawcett (2014-06-04) (英語). Misdemeanours: Beauty Queen Scandals. Lulu.com. pp. 40-41. ISBN 9781291906363
- ^ “And the winner is...”. scotsman.com. JP Media Ltd (2002年11月10日). 2019年6月4日閲覧。
- ^ “Fifties Life Style Jaren Vijftig :verkiezing Miss World xontest”. euromediarts.org. 2019年6月14日閲覧。
- ^ a b “Miss World 1953”. PIX (Associated Newspapers Limited) 31 (10): 24-25. (1953-11-14). ISSN 0032-0390.
- ^ Greg Whitmore (2013年4月12日). “Unsung hero of photography Thurston Hopkins turns 100”. theguardian.com. Guardian News and Media Limited. 2019年10月4日閲覧。