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ポール・メルワール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポール・メルワール
Paul Merwart
生誕 1855年3月25日
現ウクライナ,Marianówka
死没 1902年5月8日
サン・ピエール
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ポール・メルワール(Paul Merwart または Paweł Merwart、1855年3月25日 - 1902年5月8日)はフランス人の父親、ポーランド人の母親から生まれた画家である。

略歴

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現在のウクライナ、ヘルソン県のMarianówkaに生まれた。父親はフランス人で母親はポーランド人であった。兄弟にオーストリアで作家となったカール(Karl Merwart:1852-1922)とフランスの植民地の役人となったエミール(Émile Merwart:1869-1960)がいる。当時オーストリア帝国が統治していたリヴィウ(レンベルク)で育ち、そこの学校で学んだ後、ウィーングラーツの工科大学で工学を学んだ。決闘で負傷する事件を起こし、イタリアで治療、静養するうちに、美術の道に進むことに決めた。ウィーン美術アカデミーでペンター(Daniel Penther)に学び、1876年にミュンヘン、1877年にデュッセルドルフで修行した後[1] 、パリに移り、エコール・デ・ボザールに入学し、アンリ・ラマンイジドール・ピルスの学生になった。1879年にサロン・ド・パリに出展した。フランスの市民権を取得し、フランスで結婚した。

ル・モンド・イリュストレ」や「イリュストラシオン」「ユニヴェール・イリュストレ」などの新聞、雑誌のイラストレーターとして働き、オーストリアやロシアに特派員として派遣された。弟が植民地に影響力のある立場であったので、1896年に植民地専属画家の称号を得て、1899年から1890年は海軍公認画家(Peintre Officiel de la Marine)も務めた。アジアやアフリカ、南米のフランス植民地を訪れて絵を描いた。

西インド諸島のフランス領マルティニークサン・ピエールに滞在していた時、1902年5月8日のプレー山の噴火によって犠牲になった多数の市民の一人になった。

作品

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参考文献

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  • R. Jodłowska: Merwart, Paul. In: Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950 (ÖBL). Band 6, Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien 1975, ISBN 3-7001-0128-7, S. 238.
  • Marc Legrand: Paul Merwart. In: Revue moderne des arts et de la vie, Paris, Ausgabe vom 1. Oktober 1902, S. 13 ff. (PDF)
  • Lucien Douvion: Paul Merwart et sa famille. In: Généalogie et Histoire de la Caraïbe. Nr. 158–159, S. 3814
  • Merwart. Paul. In: Friedrich von Boetticher: Malerwerke des neunzehnten Jahrhunderts. Beitrag zur Kunstgeschichte. Band II, Dresden 1898, S. 26.

脚注

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  1. ^ Bettina Baumgärtel, Sabine Schroyen, Lydia Immerheiser, Sabine Teichgröb: Verzeichnis der ausländischen Künstler und Künstlerinnen. Nationalität, Aufenthalt und Studium in Düsseldorf. In: Bettina Baumgärtel (Hrsg.): Die Düsseldorfer Malerschule und ihre internationale Ausstrahlung 1819–1918. Michael Imhof Verlag, Petersberg 2011, ISBN 978-3-86568-702-9, Band 1, S. 436