ポール・ディコフ
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Paul Dickov | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スコットランド | |||||
生年月日 | 1972年11月1日(52歳) | |||||
出身地 | スコットランド リヴィングストン | |||||
身長 | 165cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
リヴィングストン・ユナイテッド | ||||||
1989-1990 | アーセナル | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1990-1996 | アーセナル | 22 | (4) | |||
1993-1994 | → ルートン・タウン (loan) | 15 | (1) | |||
1994 | → ブライトン (loan) | 8 | (5) | |||
1996-2002 | マンチェスター・シティ | 158 | (35) | |||
2002-2004 | レスター・シティ | 89 | (32) | |||
2004-2006 | ブラックバーン・ローヴァーズ | 50 | (14) | |||
2006-2008 | マンチェスター・シティ | 16 | (0) | |||
2007 | → クリスタル・パレス (loan) | 28 | (8) | |||
2008 | → ブラックプール (loan) | 11 | (6) | |||
2008-2010 | レスター・シティ | 21 | (2) | |||
2009 | → ダービー・カウンティ (loan) | 16 | (2) | |||
2010 | リーズ・ユナイテッド | 4 | (0) | |||
2010-2011 | オールダム・アスレティック | 2 | (0) | |||
通算 | 421 | (101) | ||||
代表歴 | ||||||
1992-1993 | スコットランド U-21 | 4 | (0) | |||
2000-2004 | スコットランド | 10 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
2010-2013 | オールダム・アスレティック | |||||
2013-2015 | ドンカスター・ローヴァーズ | |||||
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ポール・ディコフ(Paul Dickov、1972年11月1日 - )は、スコットランドの元サッカー選手、サッカー指導者。
アーセナルFCでキャリアをスタートさせ、1994年にUEFAカップウィナーズカップで優勝したが、トップチームでは定着できず、ルートン・タウンFC、ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCにレンタル移籍した時期もあった。1996年にマンチェスター・シティFCに移籍するまで、2回の昇格と2回の降格を経験した。2002年にレスター・シティFCに移籍し2シーズン過ごした後、2004年にブラックバーン・ローヴァーズFCに移籍した。2006年にマンチェスター・シティFCに復帰し、その後はクリスタル・パレスFC、ブラックプールFC、レスター・シティ、ダービー・カウンティFC、リーズ・ユナイテッドFCでプレーした。2010年にはオールダム・アスレティックAFCに選手兼任監督として所属した。2013年にドンカスター・ローヴァーズFCの監督に就任した。
代表としては10試合に出場し、1得点を記録した。
クラブ歴
[編集]アーセナル
[編集]リヴィングストンで生まれたディコフは、9歳頃からサッカーを始め、地元のリヴィングストン・ユナイテッドのU-11チームでプレーを始めた。U-13チームでプレーしていたときに、アーセナルFCのスカウト、マルコム・マクレガーの目に留まった。ディコフは1989年にアーセナルの下部組織に入団し、1990年にトップチームに昇格した。イアン・ライトといった主力選手がいたこともあり、ジョージ・グラハム監督の下ではディコフの出場機会は限られていた。1994年にUEFAカップウィナーズカップで優勝したときには控えメンバーだった。1993年にルートン・タウンFC、1994年にブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCにレンタル移籍した。
マンチェスター・シティ
[編集]1996年8月22日、75万~100万ポンドの移籍金でマンチェスター・シティFCに移籍した[1]。アラン・ボール監督の下ではこれが最後の契約となった。8月24日のストーク・シティFC戦でデビューを飾った。ボールはこの試合を最後に退任した。次節のチャールトン・アスレティックFC戦では初の先発出場を果たした。ディコフはクラブの混迷期に加入したこともあり、最初のシーズンでは5人の異なる監督(うち暫定監督が2人)の下でプレーした。エイサ・ハートフォード、スティーヴ・コッペル、フィル・ニール監督の下では先発メンバーに名を連ねたが、フランク・クラーク監督の下では出場機会が減り、最終的には25試合5得点でシーズンを終えた。1997-98シーズン開幕時にはトップチームに出場しなかったが、ウーヴェ・レスラーとリー・ブラッドベリーが負傷したため、先発に復帰した。ディコフは9ゴールを挙げてチームの得点王としてシーズンを終えたが、クラブは22位に終わり、クラブ史上初めて3部に降格した。
1998-99シーズンはショーン・ゴーターと前線でコンビを組み、リンカーン・シティ戦でのハットトリックを含む公式戦16ゴールを記録した。シーズン後半の春に調子を上げることから、ジョー・ロイル監督は「クロッカス」というあだ名を付けた。プレーオフ準決勝ファーストレグのウィガン・アスレティック戦では重要な同点ゴールを決めた。このゴールはスプリングフィールド・パークで決められた最後のゴールでもあった。このシーズンで16番目のゴールは特に決定的なもので、ジリンガムとの昇格プレーオフ決勝での後半アディショナルタイムに決めた同点ゴールだった。このゴールで延長戦に持ち込まれ、最終的にはマンチェスター・シティが勝利して2部昇格を決めた。このゴールは、2005年に投票された「シティ史上最高のゴール」に選ばれた。1999-20シーズンもトップチームでの地位を維持した。1999年9月26日に顔面に負傷を負い、歯を失ったにもかかわらず、リーグ戦の最初の15試合はすべて先発出場した[2]。しかし、10月27日のイプスウィッチ・タウン戦で膝の靱帯を負傷し、先発出場は途切れた。負傷中にロバート・テイラーが加入したため、シーズン後半の出場のうち、ほとんどは途中出場であった。シーズン最終戦のブラックバーン・ローヴァーズ戦では途中出場から4点目のゴールを決め、プレミアリーグへの昇格を勝ち取った。
2000-01シーズンにシティにプレミアリーグに復帰したときには、ジョージ・ウェア、パウロ・ワンチョペが加入したため、出場機会が限られると思われたが、ディコフはチーム内での地位を維持した。そのパフォーマンスがスコットランド代表のクレイグ・ブラウン監督の目に留まり、代表に初めて招集された。
シティは2001-02シーズンに再び1部に降格し、ジョー・ロイルの後任としてケビン・キーガンが監督に就任した。チーム内にはパウロ・ワンチョペ、ショーン・ゴーターやダレン・ハッカビー等のストライカーが在籍していたため、出場機会が限られているとディコフは感じていた。2002年2月22日、レスター・シティFCに移籍金15万ポンドで移籍した[1]。
レスター・シティ
[編集]ダービー・カウンティ戦でレスターでのデビューを果たしたが試合は0-3で敗れた。レスターでの初ゴールは6試合目の出場となったブラックバーン・ローヴァーズ戦で、2ゴールを挙げ、クラブとしては4ヶ月ぶりの勝利となった。しかし、そのシーズン、ディコフはあと2ゴールしか決められなかった。レスターは最下位に終わり降格が決まった。2002-03シーズンにはキャリアハイとなる20ゴールを記録した。レスターは2部でポーツマスに次ぐ準優勝となり、トップリーグに復帰した。
2003-04シーズンには13ゴールを記録した。その後レスターは1部に降格し、レスターからの契約延長の申し出を断り、ブラックバーン・ローヴァーズに移籍した。
2003-04シーズンの最終節、古巣のアーセナルと対戦した。アーセナルはプレストン・ノースエンドに次ぎ、最上位リーグを無敗で終えたチームとして歴史に名を刻もうとしていた。前半25分にディコフが先制ゴールを決めたが、アーセナルが逆転して2-1で勝利し、偉業を達成した。
ブラックバーン・ローヴァーズ
[編集]2004年8月14日のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、後半開始から途中出場しデビューした。次節のサウサンプトン戦で初得点を挙げた。2004-05シーズンのほとんどの試合に出場したが、膝の負傷によりシーズン最後の数週間を欠場した。リーグ戦で10ゴールを挙げてこのシーズンを終えた。2005-06シーズンは、マーク・ヒューズ監督がクレイグ・ベラミー、シェフキ・クキと契約したため、出場機会を確保するのが難しくなった。ウェストハム・ユナイテッド戦でレッドカードを受けたこともあり、シーズン最初の月のほとんどを欠場した。秋には再び試合に出場したが、シーズンが進むにつれて先発出場は減っていった。2006年夏に契約満了に伴いクラブを退団した[3]。
マンチェスター・シティ復帰
[編集]2006年5月26日、マンチェスター・シティに再加入し、2年契約を結んだ[4]。2006-07シーズンの初戦となるチェルシー戦に途中出場したが、0-3で敗れた。その後、1-0で勝利した古巣アーセナル戦を含む次の3試合に先発出場した。
ディコフはシーズン中に背中、膝、つま先など複数の負傷に苦しみ、つま先の負傷では4か月間戦列を離れた。2006-07シーズンは9試合に先発出場し、7試合途中出場したが、1ゴールも記録できなかった。2007年5月、引退後に指導者となることに関心があると発表した。
2007年8月31日、3か月のレンタルでクリスタル・パレスFCに移籍した。2008年1月31日にはサイモン・グレイソン監督率いるブラックプールFCに5月までのレンタルで加入した。ブラックプールFCでのデビュー戦となった古巣レスター・シティ戦では70分に途中出場し、89分に決勝ゴールを決めた。このゴールは2006年1月2日以来の得点となった。ブラックプールでの最初の5試合で5ゴールを決め、3月4日にはPFAによる2月の最優秀選手に選ばれた。レンタルが終わるまでに、ディコフは11試合に出場して6ゴールを記録していた。レンタル終了後マンチェスター・シティに戻り、シーズン終了後に放出された。
レスター・シティ復帰
[編集]レスター・シティからのオファーを一度拒否し、トロントFCとブラックプールFCからのオファーを熟考した後、2008年8月7日にレスターに再加入することを決め、2年契約を結んだ[5]。2008年8月9日のミルトン・キーンズ・ドンズ戦で移籍後初出場し、リーグカップのフラム戦で初ゴールを決めた。リーグ戦合計20試合に出場し、2ゴールを決め、レスターは2008-09シーズンのリーグ1に優勝しシーズンを終えた。
2009年9月28日、ダービー・カウンティFCに翌年1月までレンタル移籍した。ディコフの粘り強いプレースタイルはダービーファンの支持を獲得した。2009年10月24日のクイーンズ・パーク・レンジャーズ戦でダービーでの初ゴールを決めた。レスターに戻った後、2010年2月1日に契約を解除され、新たなクラブを探した。
リーズ・ユナイテッド
[編集]2010年3月3日、リーズ・ユナイテッドFCとシーズン終了までの契約を結んだ。当初はMLSのトロントFCがディコフと契約すると思われていたが、最終的にはリーズと契約することとなった。ディコフは今シーズン既に2つのクラブでプレーしているため、リーズはディコフと契約するためにFIFAから特別な許可を得る必要があった。ブレントフォード戦で控えメンバーに名を連ね、終盤に途中出場してリーズでのデビューを果たした。ミルウォール戦では負傷したジャーメイン・ベックフォードに代わって先発出場した。2009-10シーズン、リーズは2位でフィニッシュし、チャンピオンシップへの昇格を果たしたが、ディコフの契約は更新されなかった。
代表歴
[編集]1989 FIFA U-16世界選手権でスコットランド代表として出場し、サウジアラビアとの決勝でゴールを決めたが、PK戦では失敗し優勝を逃した[6]。2000年10月7日、2002 FIFAワールドカップ予選のサンマリノ戦に途中出場し、A代表デビューを果たした。この年、クロアチア戦とオーストラリア戦でも途中出場した。クラブでの出場機会が限られていたため、その後2年間代表に選ばれなかった。レスターで好調だった2002年9月に再び代表に招集され、フェロー諸島戦で先発出場を果たした。しかし、不慣れなウィングでの出場となり、ハーフタイムで交代となった[7]。翌年のUEFA EURO 2004予選のフェロー諸島戦で代表初得点を挙げた。代表最後の出場は2004年のノルウェー戦であった。スコットランド代表としては合計10試合に出場し、1得点を記録した。
監督歴
[編集]オールダム・アスレティック
[編集]2010年6月9日、デイブ・ペニー監督の退任に伴い、オールダム・アスレティックAFCに選手兼任監督として1年契約を結んだ[8]。選手としてはオールダムが最後のクラブになると思われていた。オールダムでの監督としての初陣はライバルのトレンメア・ローヴァーズ戦で、デール・スティーブンスが2得点を挙げて2-1で勝利した。選手としては2010年9月4日のブリストル・ローヴァーズ戦に後半途中出場し、オールダムでのデビューとなった[9]。
ディコフは若手を中心としたチームを作ることを決め、2009-10シーズンの年間最優秀選手でキャプテンのショーン・グレーガンとチーム得点王のパヴェル・アボットを放出するという、物議を醸す決断を下した。新年を迎えたときには、ホームでは無敗で9位につけていたが、シーズン後半の成績は安定せず、最終的には17位でシーズンを終えた。2011年5月6日、ディコフはシーズン最終戦でシーズン2度目の出場をし、その後は監督に専念するために現役生活を終えると表明した。翌日、現役最後の試合となったミルトン・キーンズ・ドンズ戦は後半32分から途中出場した[10]。
2011-12シーズンは前シーズンより1つ順位を上げ、リーグ1を16位で終えた。
2013年1月27日には、FAカップ4回戦のリヴァプール戦で3-2の衝撃的な勝利を導いた[11]が、リーグでの成績不振を理由に2月3日に辞任した[12]。
ドンカスター・ローヴァーズ
[編集]2013年5月20日、2012-13シーズンのリーグ1を制しチャンピオンシップに昇格したドンカスター・ローヴァーズFCの監督に就任した[13]。ドンカスターは最終節でレスター・シティに0-1で敗れ、わずか1シーズンでリーグ1に降格した[14]。2015年9月8日、成績不振を理由にドンカスターの監督を解任された[15]。
私生活
[編集]既婚者であり、3人の子供がいる。家族はチェシャーに住んでいる。ディコフという姓はブルガリア人の祖父に由来している。
スペインのラ・マンガでのトレーニングキャンプ中の2004年3月、レスター・シティのチームメイトであるキース・ギレスピーとフランク・シンクレアとともに、性的暴行の疑いがかけられた。その後、法医学検査により申し立てが虚偽であることが判明し、3人全員が無罪となった[16]。ディコフは後にこのことをサッカー選手としてのキャリアで「最も暗い時期」と表現した[17]。
個人成績
[編集]クラブ
[編集]所属クラブ | シーズン | リーグ | カップ | リーグカップ | その他 | 合計 | ||||||
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所属リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
アーセナル | 1992-93 | プレミアリーグ | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | – | 3 | 2 | |
1993-94 | プレミアリーグ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
1994-95 | プレミアリーグ | 9 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | 0 | 13 | 3 | |
1995-96 | プレミアリーグ | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1 | |
合計 | 20 | 3 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | 0 | 24 | 6 | ||
ルートン・タウン | 1993-94 | ディヴィジョン1 | 15 | 1 | – | – | – | 15 | 1 | |||
ブライトン | 1993-94 | ディヴィジョン2 | 8 | 5 | – | – | – | 8 | 5 | |||
マンチェスター・シティ | 1996-97 | ディヴィジョン1 | 29 | 5 | 1 | 0 | 2 | 0 | – | 32 | 5 | |
1997-98 | ディヴィジョン1 | 30 | 9 | 2 | 0 | 1 | 0 | – | 33 | 9 | ||
1998-99 | ディヴィジョン2 | 35 | 10 | 4 | 1 | 4 | 2 | 3 | 2 | 46 | 15 | |
1999-2000 | ディヴィジョン1 | 34 | 5 | 1 | 0 | 2 | 1 | – | 37 | 6 | ||
2000-01 | プレミアリーグ | 21 | 4 | 1 | 0 | 3 | 1 | – | 25 | 5 | ||
2001-02 | ディヴィジョン1 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | – | 8 | 1 | ||
合計 | 156 | 33 | 9 | 1 | 13 | 5 | 3 | 2 | 181 | 41 | ||
レスター・シティ | 2001-02 | プレミアリーグ | 12 | 4 | – | – | – | 12 | 4 | |||
2002-03 | ディヴィジョン1 | 42 | 17 | 2 | 2 | 2 | 1 | – | 46 | 20 | ||
2003-04 | プレミアリーグ | 35 | 11 | 2 | 1 | 2 | 1 | – | 39 | 13 | ||
合計 | 89 | 32 | 4 | 3 | 4 | 2 | – | 97 | 37 | |||
ブラックバーン・ローヴァーズ | 2004-05 | プレミアリーグ | 29 | 9 | 6 | 1 | 0 | 0 | – | 39 | 10 | |
2005-06 | プレミアリーグ | 21 | 5 | 1 | 0 | 4 | 2 | – | 26 | 7 | ||
合計 | 50 | 14 | 7 | 1 | 4 | 2 | – | 65 | 17 | |||
マンチェスター・シティ | 2006-07 | プレミアリーグ | 16 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | – | 18 | 0 | |
2007-08 | プレミアリーグ | – | – | 1 | 0 | – | 1 | 0 | ||||
合計 | 16 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | – | 19 | 0 | |||
クリスタル・パレス | 2007-08 | チャンピオンシップ | 9 | 0 | – | – | – | 9 | 0 | |||
ブラックプール | 2007-08 | チャンピオンシップ | 11 | 6 | – | – | – | 11 | 6 | |||
レスター・シティ | 2008-09 | リーグ1 | 20 | 2 | 3 | 0 | 2 | 1 | 1 | 0 | 26 | 3 |
2009-10 | チャンピオンシップ | 1 | 0 | – | 1 | 0 | – | 2 | 0 | |||
合計 | 21 | 2 | 3 | 0 | 3 | 1 | 1 | 0 | 28 | 3 | ||
ダービー・カウンティ | 2009-10 | チャンピオンシップ | 16 | 2 | – | – | – | 16 | 2 | |||
リーズ・ユナイテッド | 2009-10 | リーグ1 | 4 | 0 | – | – | – | 4 | 0 | |||
オールダム・アスレティック | 2010-11 | リーグ1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
キャリア通算 | 417 | 100 | 24 | 5 | 30 | 13 | 4 | 2 | 475 | 120 |
代表
[編集]スコットランド代表 | ||
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年 | 出場 | 得点 |
2000 | 3 | 0 |
2001 | 0 | 0 |
2002 | 1 | 0 |
2003 | 3 | 1 |
2004 | 3 | 0 |
通算 | 10 | 1 |
監督成績
[編集]- 2015年9月8日現在
クラブ | 就任 | 退任 | 記録 | ||||
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試 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 | |||
オールダム・アスレティック | 2010年6月9日 | 2013年2月3日 | 141 | 43 | 37 | 61 | 30.50 |
ドンカスター・ローヴァーズ | 2013年5月20日 | 2015年9月8日 | 113 | 34 | 30 | 49 | 30.09 |
合計 | 254 | 77 | 67 | 110 | 30.31 |
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- アーセナル
- UEFAカップウィナーズカップ: 1993-94
- レスター・シティ
- EFLリーグ1: 2008-09
個人
[編集]- PFA年間ベストイレブン: 2002-03ディヴィジョン1
脚注
[編集]- ^ a b James, Gary (2006). Manchester City – The Complete Record. Derby: Breedon. ISBN 1-85983-512-0p218.
- ^ “Paul's painful encounters”. Manchester City F.C. Match programme. (27 November 1999)
- ^ “Blackburn release striker Dickov”. BBC Sport. (20 May 2006) 2023年7月13日閲覧。
- ^ “Man City snap up striker Dickov”. BBC Sport. (26 May 2006) 2023年7月14日閲覧。
- ^ “Dickov returns to Leicester City”. BBC Sport. (8 August 2008) 2023年7月14日閲覧。
- ^ “How Scotland almost won a World Cup at Hampden in 1989”. BBC Sport (24 June 2020). 2023年7月14日閲覧。
- ^ Lamont, Alasdair (7 September 2002). “Things can only get better”. BBC Sport 2023年7月14日閲覧。
- ^ “Oldham name former Manchester City striker Paul Dickov as player-manager”. The Guardian. Press Association (London). (9 June 2010) 2023年7月14日閲覧。
- ^ “Oldham 1–1 Bristol Rovers”. BBC News. (4 September 2010)
- ^ “Oldham 1 – 2 MK Dons”. BBC Sport (British Broadcasting Corporation). (7 May 2011) 2023年7月14日閲覧。
- ^ “Oldham 3–2 Liverpool”. BBC Sport. (27 January 2013)
- ^ “Paul Dickov: Oldham Athletic manager steps aside”. BBC Sport. (3 February 2013) 2023年7月14日閲覧。
- ^ “Paul Dickov: Doncaster Rovers appoint former Oldham boss”. BBC Sport. (20 May 2013) 2023年7月14日閲覧。
- ^ “Leicester City 1-0 Doncaster Rovers” (英語). BBC Sport. (3 May 2014) 2023年7月14日閲覧。
- ^ “Paul Dickov: Doncaster sack manager after poor start to season”. BBC Sport. (8 September 2015) 2023年7月14日閲覧。
- ^ “Leicester trio cleared of assault”. CNN. (20 May 2004)
- ^ “Dickov speaks about La Manga case”. BBC Sport. (17 March 2009) 2023年7月14日閲覧。
外部リンク
[編集]- ポール・ディコフ - National-Football-Teams.com
- ポール・ディコフ - Soccerbase.comによる選手データ
- ポール・ディコフ - Soccerbase.comによる監督データ
- ポール・ディコフ - FootballDatabase.eu
- ポール・ディコフ - WorldFootball.net
- ポール・ディコフ - Transfermarkt.comによる選手データ
- ポール・ディコフ - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ポール・ディコフ - FIFA主催大会成績
- ポール・ディコフ - UEFA
- ポール・ディコフ - playmakerstats.com