ペレグリン・バーティー (第2代アンカスター=ケスティーヴァン公爵)
第2代アンカスター=ケスティーヴァン公爵ペレグリン・バーティー(英語: Peregrine Bertie, 2nd Duke of Ancaster and Kesteven、1686年4月29日 – 1742年1月1日)は、イギリスの貴族、政治家。1686年から1704年までペレグリン・バーティー閣下、1704年から1715年までウィロビー・ド・アーズビー男爵、1715年から1723年までリンジー侯爵の儀礼称号を使用した。
生涯
[編集]初代アンカスター=ケスティーヴァン公爵ロバート・バーティーと1人目の妻メアリー(Mary、旧姓ウィン(Wynn)、1689年9月20日没、第4代準男爵サー・リチャード・ウィンの娘)の次男(長男ロバートは1704年に死去)として、1686年4月29日に生まれた[1][2]。
1708年イギリス総選挙において、リンカンシャー選挙区で当選して庶民院議員になり、父がホイッグ党に転じたものの自身はトーリー党に留まった[3]。以降1710年イギリス総選挙と1713年イギリス総選挙でも再選を果たしたが、1715年イギリス総選挙では出馬しなかった[3]。同1715年3月16日、繰上勅書により父からウィロビー・ド・アーズビー男爵位を継承して貴族院議員になった[3]。
1719年から1727年までジョージ1世の寝室侍従を務め、1723年7月26日には父の死去に伴いアンカスター=ケスティーヴァン公爵の爵位とリンカンシャー統監と式部卿の職を継承した[3]。同時にアーズビーとグリムスソープ城の領地も継承した。
1728年から1742年に死去するまでランカスター公領の地代収入役を務め、1734年から1742年に死去するまで北トレント巡回裁判官を務めた[3]。1739年に創設された捨子養育院の初代総裁の1人でもあった[4]。
1742年1月1日に死去、13日にエデナムで埋葬された[1]。長男ペレグリンが爵位を継承した[2]。
家族
[編集]1711年6月、ジェーン・ブラウンロー(Jane Brownlow、1736年8月26日没、第3代準男爵サー・ジョン・ブラウンローの娘)と結婚[1]、3男4女をもうけた[5]。
- ペレグリン(1714年 – 1778年8月12日) - 第3代アンカスター=ケスティーヴァン公爵[1]
- アルベマール(1765年5月16日没) - 生涯未婚
- ブラウンロー(1729年5月1日 – 1809年2月8日) - 第5代アンカスター=ケスティーヴァン公爵[1]
- メアリー(1774年5月23日没) - 1748年2月21日、サミュエル・グレートヘッド(Samuel Gretehead)と結婚、子供あり[5]
- アルビニア(Albinia、1754年2月12日没) - 1744年、フランシス・ベックフォード(Francis Beckford、ピーター・ベックフォードの息子)と結婚、子供なし[5]
- ジェーン(1793年8月21日没) - 1743年3月31日、エドワード・マシューと結婚、子供あり[5]
- キャロライン(1774年6月4日没) - 1753年6月12日、ジョージ・デウォー(George Dewar)と結婚、子供あり[5]
脚注
[編集]- ^ a b c d e Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 127–128.
- ^ a b Burke's Peerage (英語) (99th ed.). 1949. p. 52.
- ^ a b c d e Watson, Paula; Gauci, Perry (2002). "BERTIE, Peregrine, Lord Willoughby de Eresby (1686-1742)". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年2月18日閲覧。
- ^ A Copy of the Royal Charter Establishing an Hospital for the Maintenance and Education of Exposed and Deserted Young Children (英語). p. 4.
- ^ a b c d e Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1931). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council and Knightage (英語) (89th ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 1498.
グレートブリテン議会 | ||
---|---|---|
先代 アルベマール・バーティー ジョージ・ウィッチコット |
庶民院議員(リンカンシャー選挙区選出) 1708年 – 1715年 同職:ジョージ・ウィッチコット 1708年 – 1710年 ルイス・ダイモック 1710年 – 1713年 サー・ジョン・ブラウンロー準男爵 1713年 – 1715年 |
次代 サー・ウィロビー・ヒックマン準男爵 サー・ジョン・ブラウンロー準男爵 |
公職 | ||
先代 初代アンカスター=ケスティーヴァン公爵 |
式部卿 1723年 – 1742年 |
次代 第3代アンカスター=ケスティーヴァン公爵 |
名誉職 | ||
先代 エドワード・ラッセル卿 |
カーナーヴォンシャー主席治安判事 1714年 – 1739年 |
次代 サー・ウィリアム・ヤング準男爵 |
先代 初代アンカスター=ケスティーヴァン公爵 |
リンカンシャー統監 1724年 – 1742年 |
次代 第3代アンカスター=ケスティーヴァン公爵 |
司法職 | ||
先代 初代リミントン子爵 |
巡回裁判官 北トレント 1734年 – 1742年 |
次代 第4代カーディガン伯爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 ロバート・バーティー |
アンカスター=ケスティーヴァン公爵 1723年 – 1742年 |
次代 ペレグリン・バーティー |
イングランドの爵位 | ||
先代 ロバート・バーティー |
ウィロビー・ド・アーズビー男爵 (繰上勅書により) 1715年 – 1742年 |
次代 ペレグリン・バーティー |