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ベルンハルト・エルンスト・フォン・ビューロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベルンハルト・フォン・ビューロー
Bernhard von Bülow
ベルンハルト・フォン・ビューローの肖像写真
生年月日 (1815-08-02) 1815年8月2日
出生地 ホルシュタイン公国ツィスマールドイツ語版
没年月日 (1879-10-20) 1879年10月20日(64歳没)
死没地 ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国フランクフルト・アム・マイン
出身校 ベルリン大学ゲッティンゲン大学キール大学
前職 裁判員
所属政党 無所属
配偶者 ルイーゼ・フィクトリーネ・リュッカー
親族 ベルンハルト・フォン・ビューロー

選挙区 プロイセン代表
在任期間 1875年 - 1879年10月20日
皇帝 ヴィルヘルム1世

ドイツの旗 ドイツ帝国
第2代外務長官
内閣 ビスマルク内閣
在任期間 1873年10月9日 - 1879年10月20日
皇帝 ヴィルヘルム1世

北ドイツ連邦
連邦参議院議員
選挙区 メクレンブルク両大公国代表
在任期間 1867年 - 1868年
連邦主席 ヴィルヘルム1世

内閣 ビューロー内閣
在任期間 1850年 - 1858年
大公 フリードリヒ・フランツ2世
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ベルンハルト・エルンスト・フォン・ビューロードイツ語: Bernhard Ernst von Bülow1815年8月2日 - 1879年10月20日)は、デンマークメクレンブルクプロイセン及びドイツ外交官政治家。ドイツ帝国外務長官(在任:1873年 - 1879年)。

生涯

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1815年8月2日、デンマークの官僚であったアドルフ・フォン・ビューロードイツ語版とズザンネ・フォン・バウディシン(Susanne von Baudissin[1]の子として、ホルシュタインツィスマールドイツ語版で生まれた[2]ベルリン大学ゲッティンゲン大学キール大学で法律を学んだ後に政界入りし、コペンハーゲンにあるシュレースヴィヒ=ホルシュタインラウエンブルク[注釈 1]の裁判所に勤務した後、外務省に転じた[2]。1842年に公使館員になり、1847年にハンザ諸都市駐在デンマーク公使に就任した[2]

1848年にシュレースヴィヒで反乱が勃発すると、ビューローはデンマーク政府を退職して、キールで成立した臨時政府に加入するよう申し出たが、それが拒否されたため1849年にデンマーク政府に戻り、王室侍従に任命された[2]。1850年、シュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国の代表としてフランクフルト・アム・マインドイツ連邦議会英語版に派遣された[2]。そこでオットー・フォン・ビスマルクの知遇を得て、ビスマルクはビューローがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題に政治家らしく取り組んだことを気に入った[2]。ビューローは急進的なアイダーポリティッケンデンマーク語版[注釈 2]を支持しなかったため、1862年にアイダー派が権力を握るとフランクフルトから召還された[2]

ビューローは続いてメクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の首相になり、1867年まで在任した後、北ドイツ連邦連邦参議院英語版メクレンブルク=シュヴェリーン大公国とメクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の代表を務め、メクレンブルク両大公国の古い憲法を自由主義者の批判から弁護した[2]。1873年、ビスマルクから帝国外務長官に招聘され、1875年には連邦参議院のプロイセン代表に任命された[2]。1877年、ドイツ外務長官としてビスマルクの副官を務め、1878年にはビスマルクとクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストとともにプロイセン代表としてベルリン会議に参加した[2]

1879年10月20日、フランクフルトで死去した[2]

家族

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ハンザ都市に駐在していたとき、商人との交流を通じて裕福な相続人ルイーゼ・フィクトリーネ・リュッカー(Louise Victorine Rücker)と知り合い、1848年に結婚した[2]。ルイーゼとの間に7男1女を儲け、うち6男が成年した。

  • ベルンハルト(1849年 - 1929年) - ドイツ帝国宰相
  • アドルフドイツ語版(1850年 - 1897年)
  • アルフレートドイツ語版(1851年 - 1916年)
  • ヴァルデマール(1852年 - 1854年)
  • クリスティアン(1855年 - 1927年)
  • ベルタ(1858年 - 1870年)
  • カール・ウルリヒ(1862年 - 1914年)
  • フリードリヒ(1865年 - 1936年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時のデンマークのドイツにおける領土。
  2. ^ アイダー川をデンマークとドイツの国境とする主張。シュレースヴィヒ公国はアイダー川の北、ホルシュタイン公国はアイダー川の南にある。

出典

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  1. ^ Heinrich Otto Meisner: Bülow, Bernhard von. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 2, Duncker & Humblot, Berlin 1955, ISBN 3-428-00183-4, S. 728 f. (電子テキスト版).
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Bülow, Bernhard Ernst von" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 793.

関連図書

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