ヘンリー・リー (3世)
原文と比べた結果、この記事には多数の(または内容の大部分に影響ある)誤訳があることが判明しています。情報の利用には注意してください。(2024年4月) |
ヘンリー・リー3世 | |
---|---|
Henry Lee III | |
ウィリム・エドワード・ウェストにより死後描かれた肖像画 | |
第9代 バージニア州知事 | |
任期 1791年12月1日 – 1794年12月1日 | |
前任者 | ベヴァリー・ランドルフ |
後任者 | ロバート・ブルック |
アメリカ合衆国下院議員 バージニア州バージニア州19区選出 | |
任期 1799年3月4日 – 1801年3月3日 | |
前任者 | ウォルター・ジョーンズ |
後任者 | ジョン・タリアフェロ |
連合会議バージニア代表 | |
任期 1786年 – 1788年 | |
前任者 | ジェームズ・モンロー |
個人情報 | |
生誕 | 1756年1月29日 イギリス領北米植民地 バージニア植民地プリンスウィリアム郡ダムフリーズ近郊 リーシルヴァニア |
死没 | 1818年3月25日(62歳没) アメリカ合衆国 ジョージア州カンバーランド島 |
墓地 | アメリカ合衆国 バージニア州レキシントン ワシントン・アンド・リー大学 リー・チャペル |
政党 | 連邦党 |
配偶者 | マチルダ・ラドウェル・リー アン・ヒル・カーター |
子供 | 以下を含む9人: ヘンリー・リー4世 シドニー・スミス・リー ロバート・E・リー |
親 | ヘンリー・リー・2世 ルーシー・グライムス |
親族 | リー家 |
出身校 | プリンストン大学 (1773年) |
署名 | |
兵役経験 | |
所属国 | アメリカ合衆国 |
所属組織 | 大陸軍 アメリカ陸軍 |
軍歴 | 1776年–1783年 (大陸軍) 1798年–1800年 (アメリカ陸軍) |
最終階級 | 中佐 (大陸軍) 少将軍 (アメリカ陸軍) |
戦闘 | アメリカ独立戦争 ウィスキー税反乱 |
ヘンリー・リー(英: Henry Lee III)またはライトホース・ハリー(英: Light Horse Harry, 1756年1月29日 - 1818年3月25日)は、アメリカ独立戦争中の大陸軍騎兵士官である。バージニア州知事とアメリカ合衆国下院議員を務めた。アメリカ合衆国建国の父の一人に上げられ、また南北戦争で有名になったロバート・E・リーの父である。
前半生
[編集]リーはバージニア植民地のダムフリーズの近くで生まれた。父はイングランド系の少将のヘンリー・リー2世(1730年 - 1787年、"Leesylvania")、母親はルーシー・グリムズ(1734年 - 1792年、the "Lowland Beauty")である。リー自身はヘンリー・リー3世である。父親の従兄弟には大陸会議の第6代議長リチャード・ヘンリー・リーがいる。母親の姪はバージニア邦知事トマス・ネルソン・ジュニアの妻である。リーの曾祖母メアリ・ブランドは合衆国大統領トマス・ジェファーソンの大叔母である。リーの祖先を辿れば、イングランド王ジョン(在位:1199年 - 1216年)、エドワード1世(在位:1272年 - 1307年)、エドワード2世(在位:1307年 - 1327年)、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ(在位:1210年 – 1212年)、カスティーリャ王ペドロ1世(在位:1350年 - 1366年、1367年 - 1369年)に行き着く[1][2]。
リーは法律家になることを目指し、1773年にニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)を卒業した。しかし、その後直ぐにアメリカ独立戦争が勃発し、リーは革命軍の士官になった。
軍歴
[編集]1776年、リーは大陸軍第1軽装竜騎兵隊に所属するバージニア竜騎兵隊の大尉に昇進した。1778年には少佐となり、小さな非正規兵隊の指揮を任された。リーは軽装騎兵隊の指揮官として大変な評判を取ることになった。
前哨基地におけるリーの働きぶりから「ライトホース・ハリー」の渾名も貰うことになった。リーは1779年8月19日にニュージャージーのパウルスフックの戦いで158名を捕虜に取るという大手柄を立て、この功績で金メダルを貰った。独立戦争全体で将軍以外の士官にこのメダルを与えられたのはリー一人である。
リーは中佐に昇進し、選りすぐりの竜騎兵を集めた中隊(リー軍団と呼ばれた)を率いて南部戦線を転戦した。この戦線でリーは勝ち戦でも負け戦でも目立った働きをした。例えばキャムデンの戦い、ギルフォード郡庁舎の戦い、ユートースプリングスの戦いである。リーはヨークタウンの戦いにおけるチャールズ・コーンウォリスの降伏にも立ち会い、その後健康上の理由で退役した。
評判の悪いウィスキー税反乱の時、リーは13,000名の民兵を率い反乱を鎮めた。しかし、この指揮は実際よりも紙の上のものであり、ジョージ・ワシントンとアレクサンダー・ハミルトンの二人が同行していた。
結婚、家庭
[編集]1782年4月8日から13日、ストラットフォード・ホールで、リーは又従妹で「神聖なるマチルダ」と言われていたマチルダ・ルドウェル・リー(1766年 - 1790年)と結婚した。マチルダはフィリップ・ルドウェル・リー・シニア(1727年 - 1775年)とエリザベス・ステップトー(1743年 - 1789年)夫妻の娘であった[3][4]。マチルダの母は後にフィリップ・リチャード・フェンドール1世(1734年 - 1805年)と再婚した。このフェンドール1世は結果的に3度結婚したが、相手はすべてリー一族であった。この結果、フェンドール1世はリーの従兄弟であり、義兄弟であり、同時に義父ということになった。フェンドール1世はリー家から購入したアレクサンドリアの土地にリー・フェンドール・ハウスを建設した。マチルダは3人の子を産み、1790年に死んだ。
1793年6月13日、リーはシャーリー・プランテーションで17歳年下のアン・ヒル・カーターと結婚した。2人の間には6人の子が生まれた。その5番目の子ロバート・エドワード・リーが後に南北戦争の南軍将軍として勇名を上げた。妻のアンはシャーリーの裕福なチャールズ・カーターとアン・バトラー・ムーア夫妻の娘であり、バージニア植民地知事アレクサンダー・スポッツウッドやロバート・カーター1世の子孫であり、さらに遡れば、トマス・モアや第2代クロフォード伯爵アレグザンダー・リンジーを通じてスコットランド王ロバート2世に辿り着いた[5][6][7]。
リーは、アーロン・バーとの共同経営を含め、かなり投機的な事業に手を出し、行き詰まってしまった。アメリカ合衆国建国の父達の間では、財政的投機は希ではないことであったが、リーのやり方は全く的が外れており、家族にまで苦しい思いをさせた。1810年、債権者の要求に応えるために、また債務者刑務所から出所するために、リーはすべての財産を処分することになった。
政治
[編集]1785年、リーはジョージ・ワシントンに対する友情の証として、セイヨウトチノキの苗木12本を贈呈した。ワシントンはそのうちの2本を友人で副官のロバート・ブラウン将軍に送り、残り10本をマウントバーノン農園に植えた。
ブラウンはその苗をペンシルベニア州イースト・アレン町の近くバスの家に植えた。1本の木だけが1921年の修復を経て168年間も生き延び、雷に打たれてその生命を終えた。1928年、この木の種876個が48州の大学と世界中の国々に配られた。この友情の象徴はアメリカの友好の木として、ブラウンのセイヨウトチノキを認めさせることになった。
1786年から1788年、リーは大陸会議の代表を務め、その最後の年にバージニア議会において、アメリカ合衆国憲法の採択に賛成した。1789年から1791年、リーはバージニア議会議員を務め、1791年から1794年バージニア州知事となった。
1794年、リーはワシントンと共に西ペンシルベニアのウィスキー税の反乱の鎮圧に赴いた。バージニアでは知事を務めた功績で新たにリー郡が創設された。リーは1798年から1800年にアメリカ陸軍の少将を務めた。1799年から1801年、リーは第6期アメリカ合衆国議会の下院議員を務め、ワシントンの死に当たってジョン・マーシャルが行った議会演説の有名な言葉を書いた「戦争で一番、平和で一番、母国の民の心に一番」。
死
[編集]1812年7月27日、ボルチモアで、リーの友人で米英戦争に反対の意を表明したボルチモア・フェデラル・レパブリカン紙の編集者アレクサンダー・コンティ・ハンソンに対して民主共和派の暴徒が押しかけた。リーはハンソンを助けにいったが、重傷を負いそれから回復しなかった。
リーと二十数名の連邦派はチャールズ・ストリートにある3階建ての事務所ビルに逃げ込んだ。ジョン・ストリッカー准将や市の役人の説得で、リーとその仲間は翌日降伏し、1マイル離れた郡刑務所まで護送された。しかし暴徒を率いる労働者ジョージ・ウールスレージャーが刑務所に侵入し、中にいた連邦派やリーを3時間にわたって殴り続けた。連邦派の一人ジェイムズ・M・リンガンが死んだ[8]。
リーは内臓を痛め、頭や顔に傷を負ってしゃべることすらままならない状況だった。リーは傷を癒すために西インド諸島に向かった。リーは1818年3月25日にダンジェネスで死んだ(ダンジェネスはジョージア州カンバーランド島にあり、ナサニエル・グリーンが夏の家として造ったものだった。グリーンの娘ルイーザがその時は所有していた)。
リーはセントメアリーズ近くにいたアメリカ艦隊に栄誉の礼で埋葬された。リーの遺骸はルイーザの母キャサリーンと同じ小さな墓地に埋められていたが、1913年にバージニア州レキシントンのワシントン&リー大学のキャンパスにあるリー礼拝堂の中のリー家遺体安置所に移された[9]。
リーは債務者刑務所に居る間に、「南部戦線の戦争の記憶」を著した(1812年、第3版はリーの息子ロバート・E・リーの記録を加え1869年に改訂)。
親族
[編集]リーの長弟チャールズ・リーは第3代アメリカ合衆国司法長官を務めた。次弟のリチャード・ブランド・リーはバージニア選出のアメリカ合衆国下院議員を2期務めた。末弟のエドムンド・ジェニングス・リー1世はアレクサンドリア市長。
- マチルダ・リーとの子供
- ナサニエル・グリーン・リー(1784年生、早世)
- フィリップ・ルードウェル・リー(1785年 - 1792年、早世)
- ルーシー・グリムズ・リー(1786年 - 1864年)、バーナード・ムーア・カーター(1784年 - 1850年)と結婚。バーナードはリーの2度目の妻アンの弟。
- ヘンリー・リー4世「黒馬」(1787年 - 1837年)ジョン・カルフーンやアンドリュー・ジャクソンのスピーチライター、アン・ロビンソン・マカーティ(1798 - 1840年)と結婚。
- グリーン・リー(1790年、生まれた日に死亡)
- アン・ヒル・カーターとの子供
- アルジャーノン・シドニー・リー(1795年 - 1796年、早世)
- チャールズ・カーター・リー(1798年 - 1871年)ハーバード大学法学部卒、農場経営
- アン・キンロック・リー(1800年 - 1864年)裁判官のウィリアム・ルイス・マーシャル(1803-1869)と結婚
- シドニー・スミス・リー(1802年 - 1869年)海軍大佐、黒船の一隻「ミシシッピ」艦長。子にフィッツヒュー・リー
- ロバート・エドワード・リー(1807年 - 1870年)南軍大将、ジョージ・ワシントンの養子ジョージ・ワシントン・パーク・カスティス(1781年 - 1857年)の娘メアリー・アン・ランドルフ・カスティス(1808年 - 1873年)と結婚。
- キャサリーン・ミルドレッド・リー(1811年 - 1856年)
脚注
[編集]- ^ http://www.whosyomama.com/gabroaddrick3/4/27743.htm
- ^ http://genealogia.netopia.pt/pessoas/pes_show.php?id=259015
- ^ http://www.whosyomama.com/gabroaddrick3/4/27746.htm
- ^ http://genealogia.netopia.pt/pessoas/pes_show.php?id=292047
- ^ http://www.whosyomama.com/gabroaddrick3/4/27751.htm
- ^ http://genealogia.netopia.pt/pessoas/pes_show.php?id=259016
- ^ http://www.civilwarhome.com/leeancestors.htm
- ^ http://famousamericans.net/jamesmaccubinlingan/
- ^ http://www.americanheritage.com/articles/magazine/ah/1972/3/1972_3_26.shtml
参考文献
[編集]- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Lee, Henry". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 361.
外部リンク
[編集]1812年のボルチモア暴動
[編集]先代 ビバリー・ランドルフ |
バージニア州知事 1791年 - 1794年 |
次代 ロバート・ブルック |