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ヘンリー・ハワード (第22代アランデル伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第22代アランデル伯
ヘンリー・ハワード
Henry Howard
22nd Earl of Arundel
アランデル伯爵ハワード家
続柄 先代の長男

称号 第22代アランデル伯爵、第5代サリー伯爵、第2代ノーフォーク伯爵、第15代モウブレー男爵、第16代セグレイブ男爵、第12代マルトレイヴァース男爵、第2代フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵、バス勲章勲爵士(KG)、アイルランド枢密顧問官英語版(PC(Ire))
敬称 My Lord
出生 1608年8月15日
死去 (1652-04-17) 1652年4月17日(43歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国 ロンドンストランドアランデル・ハウス英語版
配偶者 エリザベス(旧姓ステュワート)
子女 長男5代ノーフォーク公トマス
次男6代ノーフォーク公ヘンリー
三男フィリップ英語版
父親 21代アランデル伯トマス
母親 アレシア(旧姓タルボット)英語版
役職 軍務伯(1646年-1652年)、イングランド庶民院議員、アイルランド庶民院議員、イングランド貴族院議員
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第22代アランデル伯爵ヘンリー・フレデリック・ハワード英語: Henry Frederick Howard, 22nd Earl of Arundel, KB, PC(Ire)1608年8月15日 - 1652年4月17日)は、イングランドの貴族。

第21代アランデル伯トマス・ハワードの次男で庶民院議員や貴族院議員を務め、清教徒革命イングランド内戦)期には王党派として行動した。

経歴

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1608年8月15日に第21代アランデル伯トマス・ハワードとその妻アレシア英語版(第7代シュルーズベリー伯爵ギルバート・タルボット英語版の娘)の間の次男として生まれた。兄にマルトレイヴァース卿(儀礼称号)ジェイムズがあったが、この兄は子供のないまま1624年に死去したため、それ以降は彼が嫡男だった。また弟にカトリック陰謀事件で処刑される初代スタッフォード子爵ウィリアム・ハワードがいる[1][2][3]

1628年イングランド議会ではアランデル選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務める[1][4]1633年5月から1639年8月にかけてノーサンバランド統監英語版ウェストモーランド統監英語版を務めた[1]

1634年8月のアイルランド議会ではカラン選挙区英語版から選出されて庶民院議員になるとともにアイルランド枢密顧問官英語版に列した[1][4]

1636年6月にはサリー統監英語版サセックス統監英語版に就任した[1]1639年にはカンバーランド統監英語版を務め、1640年のイングランド議会では再びアランデル選挙区から選出されて庶民院議を務めたが、同年3月にはモウブレー男爵(特例で新規の扱い)として貴族院に召集された[1][4][2]。同議会中、王党派として行動し、国王側近の初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースの処刑に反対した[1]1641年7月の議会委員会では第4代ペンブルック伯爵フィリップ・ハーバートと激しい暴言の応酬をした[1]

1642年に国王チャールズ1世ヨークへ逃れると彼もヨークの王党派に合流した[1]。同年10月にはエッジヒルの戦いに王軍で参加した[4]。しかし第一次イングランド内戦議会派有利に傾いてくる中の1645年に病を患う父に呼び出されてヴェネツィア共和国パドヴァへ移住した[1]1646年10月の父の死により第22代アランデル伯爵位を継承し、軍務伯に就任した[1]

国外での生活に困窮したため、革命後のイングランドへ帰国。罰金を支払うことで議会から地所の返還が認められた[1][4]

1652年4月17日にロンドン・ストランドアランデル・ハウス英語版において死去した[4]。爵位は長男のトマス・ハワードが継承した。このトマスは1660年に第5代ノーフォーク公への復権を許されている[1]

栄典

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爵位

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1646年10月4日の父トマス・ハワードの死去により以下の爵位を継承した[4][2]

勲章

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家族

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第3代レノックス公エズメ・ステュワート英語版の娘エリザベス(1610–1674)と結婚。彼女との間に以下の子らを儲けた[1][4]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o "Howard, Henry Frederick" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  2. ^ a b c Heraldic Media Limited. “Arundel, Earl of (E, c.1139)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月19日閲覧。
  3. ^ Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 21st Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2016年7月19日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Henry Frederick Howard, 22nd Earl of Arundel” (英語). thepeerage.com. 2016年7月19日閲覧。
公職
先代
第21代アランデル伯爵
軍務伯
1646年 - 1652年
不明
先代
第4代カンバーランド伯爵英語版
初代クリフォード男爵英語版
第2代サフォーク伯爵英語版
ノーサンバランド統監英語版
共同就任者
第21代アランデル伯爵
第4代カンバーランド伯爵英語版
初代クリフォード男爵英語版
第2代サフォーク伯爵英語版

1632年 - 1639年
次代
第10代ノーサンバランド伯爵
ウェストモーランド統監英語版
共同就任者
第21代アランデル伯爵
第4代カンバーランド伯爵英語版
初代クリフォード男爵英語版
第2代サフォーク伯爵英語版

1632年 - 1639年
次代
第4代カンバーランド伯爵英語版
初代クリフォード男爵英語版
カンバーランド統監英語版
共同就任者
第21代アランデル伯爵 1632年 - 1642年
第4代カンバーランド伯爵英語版 1632年 - 1639年
初代クリフォード男爵英語版 1632年 - 1639年
第2代サフォーク伯爵英語版1632年 - 1639年

1632年 - 1642年
空席(空位時代英語版)
先代
第21代アランデル伯爵
ノーフォーク統監英語版
共同就任者
第21代アランデル伯爵 1633年 - 1642年

1633年 - 1642年
先代
第2代ノッティンガム伯爵英語版
初代ウィンブルドン子爵英語版
第21代アランデル伯爵
サリー統監英語版
共同就任者
第2代ノッティンガム伯爵英語版 1636年 - 1642年
初代ウィンブルドン子爵英語版 1636年 - 1638年
第21代アランデル伯爵 1636年 - 1642年

1636年 - 1642年
先代
第4代ドーセット伯爵英語版
第10代ノーサンバランド伯爵
サセックス統監英語版
共同就任者
第4代ドーセット伯爵英語版
第10代ノーサンバランド伯爵

1636年 - 1642年
先代
第21代アランデル伯爵
ノーフォーク首席治安判事英語版
サセックス首席治安判事英語版
サリー首席治安判事英語版

1636年 - 1642年
イングランドの爵位
先代
トマス・ハワード
第22代アランデル伯爵
1646年 - 1652年
次代
トマス・ハワード