プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド
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タイトルに“ザ”が付くタイトルのソートキーについて
[編集]Wikipedia:カテゴリの方針#ソートキーを見ると、「ページ名の先頭に「The」「ザ(ジ)」といった定冠詞が付く場合は、定冠詞の部分(さ、し)は省きます。」とあります。しかし、映画のタイトルで“ザ”が先頭に付くもので“ザ”を省いているものを見たことがありません。これは何かそういう合意があったりするのでしょうか。また、問題がなければソートキーの“ザ”もとい“さ”を省いていっても良いでしょうか?--一文(会話) 2023年12月8日 (金) 08:17 (UTC)
- 英語版から見てきたところ、以下のような感じだったので、言葉遊びのような使い方がされていない限り、日本語版もそれでいいような気がします
- en: The Angel (2018 film)→{{DEFAULTSORT:Angel, The (2018 American film)}}
- en:The American Meme→{{DEFAULTSORT:American Meme}}
- ----リトルスター(会話) 2023年12月15日 (金) 03:41 (UTC)
- 賛成 --Ambivalence(会話) 2023年12月15日 (金) 04:02 (UTC)
「原作との違い」の改訂提案
[編集]「原作との違い」について、改訂の提案をいたします。提案のきっかけはノート:沈黙のパレード#「原作との違い」についてです。
下の2つを加える
- 「原作」と「映像化作品」の比較など、一次資料から得られる情報のみであなた自身が分析・解釈などをした原作との違いは独自研究です。
- 「原作との違い」というような節は作るべきではありません。
下の2つの変更
- 「書きかけ」の記事 → 「書き始め」の記事 への変更
- Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません →
- ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません ([[WP:NOTEVERYTHING|ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません]])
へのリンク先の変更を提案します。
「書きかけ」の記事より「書き始め」の記事が方が適切で、文末が「記事から完全に取り除かれるべき」ならば、節を作らないように、を加えた方が良いと考えました。
リンク先の変更は、「内容節の冒頭でも説明したように」の内容節の冒頭にリンクした方が適切だと思います。
提案文は、
文学、演劇、ミュージカル、場合によっては別の映画など、他のフィクション作品を原作とする映画は数多くあります。映画製作者たちは映画作品にそのような素材を取り込む際、さまざまな理由から改変を加えます。なぜそのような改変が加えられたのか、それが映画製作にどのような影響を及ぼしたのか、関係者がそれにどのように反応したのか、などについては、本文中の適切な箇所に二次資料に基づいて詳細を記述してください。「原作」と「映像化作品」の比較など、一次資料から得られる情報のみであなた自身が分析・解釈などをした原作との違いは独自研究です。百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、映画とその原作という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述することは避けてください。とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。「原作との違い」というような節は作るべきではありません。ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。書き始めの記事や封切られたばかりの映画についての記事では、原作との違いは一箇所にまとめて記述するしかないかもしれませんが、記事が育つのに従い、それらはそれぞれ関連した箇所に組み込まれるか、記事から完全に取り除かれるべきです。
下線部分を加え、太字部分の変更を提案します。
ご意見よろしくお願いいたします。--Haatouki(会話) 2024年6月29日 (土) 16:46 (UTC)
- 「とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。「原作との違い」というような節は作るべきではありません。」という文言を入れることには反対します。作品によっては原作と大きく違うことがさまざまな批評で取り上げられたり、ファンコミュニティで問題視されて報道されたりすることもありますので、「このようなタイトルの節を作るな」というような文言を入れてしまうとそうした特筆性があると思われることまで書けなくなってしまう可能性があるためです。原作との違いを箇条書きで羅列しただけの節を作ってはいけないというような文言であれば賛成しますが、節名をあげてダメだというような書き方であれば反対です。--さえぼー(会話) 2024年6月29日 (土) 22:56 (UTC)
- 返信 (さえぼーさん宛) 原作から変えたことで批判などが報道された場合、それは「評価」や「批評」などの節で記述することではないでしょうか。「本文中の適切な箇所に」というのはそういうことだと考えます。--Haatouki(会話) 2024年6月30日 (日) 03:31 (UTC)
- Dakarananyanenさんがおっしゃっておられるように、「明らかに「無差別な収集」になるような質と量を備えた内容は、おそらく独立した節を作るようなものになるでしょうが、逆は成立しません」。評価節に書くとしても、二次資料がたくさん揃えられてかなりボリュームがあるような内容になる場合はその下で小見出しを作ってサブセクションにしたほうがいいこともあると思います。このため、それだけで節を作ってはいけないという文言を入れることにはやはり反対します。--さえぼー(会話) 2024年6月30日 (日) 08:51 (UTC)
- なお、議論のきっかけになった沈黙のパレードにあったような、無出典で箇条書きだけの節は私も作るべきではないと考えます。文言が「「原作との違い」というような見出しのもとに、箇条書きしかなかったり、二次資料による出典がなかったりするような節を作るべきではありません」などであれば賛成します。--さえぼー(会話) 2024年6月30日 (日) 09:01 (UTC)
- Dakarananyanenさんがおっしゃっておられるように、「明らかに「無差別な収集」になるような質と量を備えた内容は、おそらく独立した節を作るようなものになるでしょうが、逆は成立しません」。評価節に書くとしても、二次資料がたくさん揃えられてかなりボリュームがあるような内容になる場合はその下で小見出しを作ってサブセクションにしたほうがいいこともあると思います。このため、それだけで節を作ってはいけないという文言を入れることにはやはり反対します。--さえぼー(会話) 2024年6月30日 (日) 08:51 (UTC)
- 返信 (さえぼーさん宛) 原作から変えたことで批判などが報道された場合、それは「評価」や「批評」などの節で記述することではないでしょうか。「本文中の適切な箇所に」というのはそういうことだと考えます。--Haatouki(会話) 2024年6月30日 (日) 03:31 (UTC)
- 返信 (さえぼーさん宛) 記述する量が多ければ、おっしゃるように評価節にサブセクションを作って書けばいいので反対理由にはならないと思いますが。また、無出典や二次資料の出典がない箇条書きだけの節は「原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。」がありますし、そのための「独自研究」明記の提案です。
- また、ノート:沈黙のパレード#「原作との違い」についてでの体験で、あやふやな語句は曲解に利用されかねない、と思いました。--Haatouki(会話) 2024年6月30日 (日) 14:18 (UTC)
- 現在の文面だとサブセクションでも「原作との違い」のような節を作るのは許されない、というように読めると思うのですが。--さえぼー(会話) 2024年6月30日 (日) 14:21 (UTC)
- 返信 (さえぼーさん宛) 評価節に書く場合、原作との違いという節が必要だとは思いませんが。
- 原作からこういうことを変えたのでこういう批判が報道されたとかでしょうか。サブセクションを作って、ここではこういう評価だったとか、どこではこういう批判があった、とか記述するのに「原作との違い」という節が必要でしょうか。
- 「原作との違い」という節があり、その他の編集者がそこに簡単に箇条書きを加筆していく様を見たことも今回の提案の理由です。--Haatouki(会話) 2024年6月30日 (日) 14:34 (UTC)
- 必要でないことのほうが多いでしょうが、禁止するほどのものではないと思うため反対しています。たとえば『哀れなるものたち』は映画と原作の違いに関する記事が出ているくらいなので、この種の報道が多いものについては、あくまでも出典つきできちんとした文章で書かれているという条件つきではありますが、評価セクションに原作との違いに関する議論を紹介するサブセクションがあってもいいと思います。
- 箇条書きはもともと奨励されていない書き方であるはずなので、箇条書きで書く人が多いから節を作るじたい禁止する、というのはやりすぎではないでしょうか。きちんとした文章で二次文献を使って議論を紹介できる程度の力量があるユーザによる自由な編集を阻害してしまうと思います。--さえぼー(会話) 2024年6月30日 (日) 22:01 (UTC)
- 現在の文面だとサブセクションでも「原作との違い」のような節を作るのは許されない、というように読めると思うのですが。--さえぼー(会話) 2024年6月30日 (日) 14:21 (UTC)
- 現行文言の誤った読み方を固定しようとする上記提案には強く反対します。むしろ、このような誤った読み方を防ぐ改定が必要です。
- 現行文言には以下の問題があります。
- 「映画とその原作という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述」したものが全て百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠くものであると読めてしまうこと。「違いだけの記述」が現実世界の観点を欠くことになりやすい傾向があることは否定できませんが、必ずそうなるわけではありませんし、逆に改変が加えられた理由などに関する記述が現実世界の観点を欠くことになる可能性もあります。
- 改変が加えられた理由などに関する記述に対して二次資料を求める文言が、二次資料を別途必要とする内容以外は記述できないと読めてしまうこと。Wikipediaの理念や方針からは、二次資料云々は「改変が加えられた理由など」に対する補足説明と読む読み方しか導けません。
- 全く独立した論理である「現実世界の観点」と「ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。」を不用意に並列していること。「違いの羅列」が「無差別な収集」になりやすいものであることは確かです。しかし、そのことは「現実世界の観点」であるかどうかとは全く無関係です。
- 独立に節を作ることが「無差別な収集」になる判断基準であるように読めてしまうこと。明らかに「無差別な収集」になるような質と量を備えた内容は、おそらく独立した節を作るようなものになるでしょうが、逆は成立しません。
- 「記事が育つのに従い、関連した箇所に組み込まれるべき」という記述が、「原作との違い」の全てに適用されるように読めてしまうこと。この文言は「無差別な収集」に関する方針から導かれるもので、その条件を満たさないものには適用されません。
- このような問題を改善する方法としては、例えば「百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、」で始まる文を
- このような情報について考える基礎情報として、映画とその原作という二つのフィクション作品の違いを記述することは有用かもしれませんが、百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠く記述にならないようにしてください。
- に改めるという方法が考えられます。
- また、「とりわけ、」で始まる部分は、根拠となる方針が異なることを明示する意味で段落を改め、例えば
- などとするべきです。
--Dakarananyanen(会話) 2024年6月29日 (土) 22:53 (UTC)
- リンクの不備を修正しました。
--Dakarananyanen(会話) 2024年6月29日 (土) 22:57 (UTC)
賛成 Haatoukiさんの改訂案に賛成致します。「原作との違い」節で長々とストーリーの違いを編集者が執筆する問題は、『沈黙のパレード』だけでなく、横溝正史の小説を映像化した記事の全てに現存しています。Dakarananyanenさんとは、3年前にノート:病院坂の首縊りの家 (映画)#「原作からの改変の概要」の位置づけで、この問題について議論し、第三者にもご参加いただきました。Dakarananyanenさんは持論を繰り返すだけで、記事の品質向上を図ろうという姿勢が全く感じられず、ノート:沈黙のパレード#「原作との違い」についてや当該ノートでも、その言動が3年前と全然変わっていませんね。
映画と原作のあらすじが異なることで賛否が発生していた場合、評論のような二次資料を典拠として執筆するにしても、早くても試写会そして封切り後のことなので、評価節に収める内容だと思います。映画のストーリーを記さずに「原作との違い」節で、編集者が視聴して気づいた違いを詳細に執筆する場ではないと考えます。ましてやキャスト節やスタッフ節の前に「原作との違い」節を置くなど、PJ:MOSFILM#基本的な内容に反した構成は、出演者や製作者をないがしろにしており、論外です。そのような記事は、映画化された作品の情報を知りたい読者にはとても分かり難く不親切で、修正していくべき案件です。--Uenozuki(会話) 2024年6月30日 (日) 11:38 (UTC)
- 反対(どちらかと言えば) 提案文の追加する2点がちょっと気になっています。追加する文言の前後でほとんど同じことが書かれていて助長に感じています。また、節がなんであろうと二次資料もない、箇条書きは避けられるべきで節(名)を禁止することが根本的な解決にならないと考えます。総じて現在の記述で大きな不満もありませんし、一部の誤読される方に合わせて助長に読みにくくする必要性を感じませんでした。「書きかけ」の変更には同意します。リンクの修正は個人的にはその一部ではなく全体を読むべきと考えるので今のままでいい気もしますが特に強い反対はしません。--ぷにを(会話) 2024年7月1日 (月) 02:14 (UTC)
- コメント 「「原作との違い」というような節は作るべきではありません。」という文言の追加には反対寄りです。人斬り_(映画)や岸辺露伴_ルーヴルへ行く_(映画)のような良質な記事にも「原作との違い」は使われていますし、あくまで内容が問題かと思います。たとえばこの世界の片隅に_(映画)#原作との相違点は許容できるような気がしますが、風の谷のナウシカ_(映画)#原作との違いと共通点は一見出典がいっぱい付いているようですが独自研究に踏み込んでいる気がします。--ねこざめ(会話) 2024年7月1日 (月) 23:08 (UTC)
- 「あくまで内容が問題」というのは重要な指摘だと思います。現状は、ガイドラインの一部の文言を取り出して強調し「原作との違い」という形さえあれば何だろうと許されないと曲解しての行動が横行しているわけです。そして、文言が現状の表現である以上は防ぎようが無い、文言の修正を提起するしかないということはノート:沈黙のパレード#「原作との違い」についてへのコメントでも指摘されていました。今回の情報除去の根拠にされたような曲解をさせないための改善が必要だということです。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月2日 (火) 22:30 (UTC)
ぷにをさんねこざめさん、コメントありがとうございます。さえぼーさんのご意見に納得しましたので、「「原作との違い」というような節は作るべきではありません。」の追加提案を取り下げます。その代わりに
- 「とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。」
を、さえぼーさんの示された
「原作との違い」というような見出しのもとに、箇条書きしかなかったり、二次資料による出典がなかったりするような節を作るべきではありません。
への変更を新しく提案いたします。
さえぼーさん、「などであれば」と書かれていますし文言をお借りしましたが、ご了解いだけますか?
ぷにをさんの冗長に感じるも分かりますが、一文で分かりやすくも大切だと考えます。全面的にご賛同いただいたUenozukiさんにはこの変更を支持していただけるか、もういちどお尋ねしなければなりません。
この他の3つの提案についても、賛否のご意見をお願いいたします。--Haatouki(会話) 2024年7月3日 (水) 07:37 (UTC)
- とくに問題はありません。ありがとうございます。--さえぼー(会話) 2024年7月3日 (水) 07:41 (UTC)
- Haatoukiさん、質問に対する答えになっているか分かりませんが、個人的にこのくらいの方がいいのではないかと思う記述を作成してみました。
- 文学、演劇、ミュージカル、場合によっては別の映画など、他のフィクション作品を原作とする映画は数多くあります。映画製作者たちは映画作品にそのような素材を取り込む際、さまざまな理由から改変を加えます。なぜそのような改変が加えられたのか、それが映画製作にどのような影響を及ぼしたのか、関係者がそれにどのように反応したのか、などについては、本文中の適切な箇所に二次資料に基づいて詳細を記述してください。「原作」と「映像化作品」などをあなた自身が比較・確認して記述することは独自研究とされるため避けてください。
また、たとえ二次資料に基づいているとしても百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、「原作」と「映像化作品」という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述することは避けてください。ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。書き始めの記事や封切られたばかりの映画についての記事では、原作との違いは一箇所にまとめて記述するしかないかもしれませんが、記事が育つのに従い、それらはそれぞれ関連した箇所に組み込まれるか、記事から完全に取り除かれるべきです。 - ざっくりと二次資料に基づいてね、あなた自身が比較・確認したらだめだよ、たとえ二次資料があったとしても単なる違いだけを記述しないでねと伝える文章に調整してみた「つもり」です。--ぷにを(会話) 2024年7月3日 (水) 09:02 (UTC)
- 返信 (さえぼーさん宛) ありがとうございます。
- 返信 (ぷにをさん宛) 「独自研究は載せない」は方針ですから、独自研究とされるため「避けてください」では弱いと思います。
- 「また、たとえ二次資料に基づいているとしても」を加えるのは良いと思いますが、さえぼーさんにお示しいただいた文言を加えるのは反対ということでしょうか?--Haatouki(会話) 2024年7月3日 (水) 09:29 (UTC)
- 返信 (Haatoukiさん宛) 「避けてください」に関しては調子を合わせた文言にしただけなのでもう少し強い言い方に調整することに反対するものではありません。私の考えは前回のコメント時に言った通り同じような内容が繰り返されることを気にしたもので文言全体として繰り返される内容を調整した結果、あのようになっただけでありさえぼーさんが示してくださった文言に反対という意思はありません。--ぷにを(会話) 2024年7月4日 (木) 01:15 (UTC)
- 私はこちらの案でもとくに問題ないように思います。--さえぼー(会話) 2024年7月3日 (水) 16:33 (UTC)
- 「比較・確認して記述する」だけで「独自研究」だというのは無理がありますね。独自研究の方向性は「事実、理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証」と明示されていますが、今の場合「事実」には問題ありませんから、残りの8項目に該当するかどうかという検証になります。比較によって新たな「理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証」が提示されれば独自研究です。逆に言えば、提示されなければ独自研究ではない。
- 単に比較するだけでは「理念、……、論証」にはなりません。そこからもう1歩踏み込んだ議論をして初めて独自研究になる可能性が生じます。「もう1歩」には例えば「特定の観点を推進する合成」を典型例とする「隠された独自研究」も含まれます。「合成」ではなく特定の観点に基づく「選択」でも「隠された独自研究」になる可能性がある。
- いずれにしても、独自研究云々は、この事例の場合には「映画製作者たちは……どのように反応したのか」に対する注意事項だということです。それをコッソリと隣の論述に拡げるのは許されることではありません。
- 「比較情報の列挙」を禁止するという目標を先に決めて、それが導かれるように論理を捻じ曲げる行為には怒りを感じます。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月4日 (木) 01:10 (UTC)
- 独自研究ではないという点に関してふむなるほどと思うところもあるのですが実際のところ過去にあった一例(私も参加しています)ですが、Wikipedia‐ノート:検証可能性#編集者がウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果は、読者に検証可能か?ではウェブページとそのアーカイブページを比較して記述が「削除されている」と書くのはWP:SYNであると複数の利用者に言われています。このレベルでも情報の合成と言われるのですがそれを避けて比較・確認した「何」を記述できるのか?とも思います。また、私の提案文の『また、たとえ二次資料に(中略)記述することは避けてください。』は現実世界の観点を欠いてるならば独自研究でなくとも百科事典には必要のない記述であるとする既存の文言を踏襲したものです。私としては『「原作」と「映像化作品」などをあなた自身が比較・確認して記述することは独自研究とされるため避けてください。』を撤去してもいいのですが、それを撤去したところで『「比較情報の列挙」』を受け入れないのが既存の文言だと考えています。--ぷにを(会話) 2024年7月4日 (木) 03:04 (UTC)
- 御紹介いただいた事例をざっと拝見しました。今の議論に対して重要なのは、この事例がWP:SYNに該当するかどうかという観点で議論されていることだと思います。つまり、「隠された独自研究」=「一見した限りでは独自研究ではない」ということが大前提になっているということですね。単に「比較・確認」するだけでは独自研究ではなく、その裏に特定の意図が隠されているかどうかが独自研究かどうかを決めるということです。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月5日 (金) 00:09 (UTC)
- 個人的にそこを掘り下げて考える気はないんですよね。WP:SYNであろうとなかろうと現在の「原作との違い」では『百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、映画とその原作という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述することは避けてください。とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。』があることで比較情報の列挙はNGだと読めるし、それに対して多くの人がそれを受け入れています。二次資料でそのような改変をした・しなければならなかった理由・背景などに触れられていなければ記述するべきではないでしょうし、そのような情報があるのであれば列挙ではなくちゃんとした文章として記述するべきです。--ぷにを(会話) 2024年7月5日 (金) 00:43 (UTC)
- 「現在の「原作との違い」では……NGだと読める」ことが問題だと指摘しているんです。最初にこの文章を読んで違和感を抱き、どういう根拠でそのように主張されているのか読み込んでみたら、「現実世界の観点」「二次資料」「無差別な収集」の3つが論拠になっている。この3つは「原作との違い」のどういう部分がどのように問題かというポイントが全て異なっていて、それを混ぜこぜにした論理の混乱した文章になっている。冷静に考えてみると、3つの論拠の各々の意味でNGな「原作との違い」というものが存在する可能性があり、複数に該当するものも3つとも該当しないものも有り得る。しかし、現行の文言は論理が混乱しているために、どの論拠でNGなのかに関わりなく全ての「原作との違い」がNGという、Wikipediaのどの理念や方針からも導けない意味に読めてしまう文章になっている。それが問題なんです。
- それから、「多くの人がそれを受け入れています」というのには同意できません。事実は一部の「過激派」とも言うべき人々が破壊的な情報除去を系統的に行い、Wikipediaの貴重な情報資源が失われている。それは止める必要があります。--Dakarananyanen(会話) 2024年7月5日 (金) 23:43 (UTC)
- 個人的にそこを掘り下げて考える気はないんですよね。WP:SYNであろうとなかろうと現在の「原作との違い」では『百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、映画とその原作という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述することは避けてください。とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。』があることで比較情報の列挙はNGだと読めるし、それに対して多くの人がそれを受け入れています。二次資料でそのような改変をした・しなければならなかった理由・背景などに触れられていなければ記述するべきではないでしょうし、そのような情報があるのであれば列挙ではなくちゃんとした文章として記述するべきです。--ぷにを(会話) 2024年7月5日 (金) 00:43 (UTC)
- 二次出典なしに「比較・確認して記述する」のは明らかな独自研究だと思います。Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料に「あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません」とあり、何と何が違うとかいうようなことを指摘するのは一次資料を見て行う分析にあたるからです。--さえぼー(会話) 2024年7月4日 (木) 16:28 (UTC)
- 単なる「比較・確認」が「分析」に該当しますか?それを独自研究の事例として挙げられている「分析」と規定してしまったら、出典から文章を抽出したり要約したりすることが全て「分析」に該当してしまう。Wikipediaが百科事典として成立しなくなりますよ。--Dakarananyanen(会話) 2024年7月5日 (金) 23:47 (UTC)
- はい、します。フィクション関係の記事について、一次資料だけでやってよいことはあらすじの簡単な要約程度で、それ以上のことをするとほぼ全て「分析」になり、独自研究になると思いますので、二次出典なしに原作と映像化の違いを書くなどというのは完全に「分析」だと思います。「○○に××はないが、△△にはある」などというのは書き手の判断が入っていますので、「出典から文章を抽出したり要約したりすること」とは全く異なります。二次出典なしに原作と映像化の比較などをウィキペディア記事に書くべきではありません。--さえぼー(会話) 2024年7月6日 (土) 00:17 (UTC)
- 「全く異なります」と言い切ってしまえる根拠をかなり考えてみたのですが、全く解りませんね。
- 「独自研究」の定義が、下手に解釈すると「出典をそのまま転記しない限りすべて独自研究になる」と成りかねないものになってしまうのは避けられないわけで、それゆえにWP:COUNTSORTのような文書が必要になるわけです。ただ、この文書は完全に明白な事例にしか言及していない。
- 単なる「抽出・要約」だって書き手の判断に負う行為です。どの判断からが独自研究に該当するかということには、明確な基準がありません、というか作れません。ヒントになりそうなことの1つに、WP:NORで「理念、……、論証」という概念を初出した後で、独自研究と認定される条件として、同じ言葉に「編集者が好む立場を支持するような形で、」と付加したものを挙げていることがあります。「編集者が好む立場を支持するような形で、」=「特定の意図を志向して」と言い換えても良いでしょう。その「意図」は明示されているか、隠されているか、書いた本人さえ意識していないか、いろいろ考えられますが、いずれにしてもそのような事例が独自研究に該当するということは読み取れる。じゃあ「意図」が存在していない場合はどうなんだということです。
- そんなふうに考えていくと、「誰が実行しても同じ結論になるような比較・確認」を独自研究だと規定することには同意できません。そんな比較には「独自研究と認定するほどの価値が無い」のです。--Dakarananyanen(会話) 2024年7月8日 (月) 23:06 (UTC)
- 端的に言って「誰が実行しても同じ結論になるような比較・確認」である保証がどこにもないんですよね。本当にそうなるのかどうか見た人が全員同じことをして確認しなくてはならないんですよ。二次資料にそう書かれているかどうかの確認と負担が違いすぎます。方針として一部の「誰が実行しても同じ結論になるような比較・確認」を許可することでそうでないもの(本人が気付いている・いないに関わらず)を「誰が実行しても同じ結論になるような比較・確認」だからと記載されることで記事が破壊されることを防ぐことの方が大切だと判断しているのかもなくらいに思っていますが。--ぷにを(会話) 2024年7月9日 (火) 01:54 (UTC)
- 話がズレてませんか?「二次資料を確認するまでもなく」誰にでも検証できて同じ結論になるような内容を「独自研究」と規定するのは不合理だという指摘なんですが。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月10日 (水) 03:46 (UTC)
- 話ずれてますか?(原作と映画を見て)「誰が実行しても同じ結論になるような比較・確認」しか記述されていない「保証」がないんですよ。それを確認するのに結局、原作と映画全てを見ないと確認できませんし、気になった全ての閲覧者にそれを強いるのもおかしいと言っているだけです。
- 例えば原作で「虹色」という表現が出てきたとして、映画で「6色」しか使われていなかった場合、これは同一なのか差なのか個人で判定が変わるでしょう。それは「誰が実行しても同じ結論にならなかった比較・確認」だと言われるでしょうけど、ではその「同じになる・同じにならない」の線引きは誰がするのでしょうか?--ぷにを(会話) 2024年7月10日 (水) 04:59 (UTC)
- 私論ですがWikipedia:空が青いということに出典は要るというページがあるくらいですので、「誰が実行しても同じ結論になる」ものにも二次出典が要ると考えるウィキペディアンは一定数いると考えられます。さらにぷにをさんがおっしゃるように、今回の議論のポイントについては「「誰が実行しても同じ結論になるような比較・確認」しか記述されていない「保証」がない」と思います。
- さらに別の論点として、二次出典なしに原作と映像化の違いを書くのはWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんに抵触する可能性が高いと思われます。二次出典で大きな違いだとして議論されているようなものならなんらかの特筆性があると見なせるので無差別な収集ではないと言えるでしょうが、それなしに一次資料だけ見て違いを書くと、読んでいるほうはそれが作品を見るにあたって重要なことなのかそうでないのか判断がつきません。--さえぼー(会話) 2024年7月10日 (水) 08:36 (UTC)
- 何故、そういう「誰が実行しても同じ結論になる」かどうか微妙な事例をわざわざ持ち出すんですか。もっとWP:COUNTSORTなみに自明な事例がいくらでも考えられるのに避けるという神経が解らない。
- 例えばそうですね、ある作品の原作が登場人物Aの視点で記述されていて、それを原作とする映画がAの助手であるBという人物の視点で映像化されているとしましょう。もちろん、以上の事実自体について出典表示の問題は無いという前提で考えることにします。このとき、この2つの事実に基づいて「視点人物がAからBに変更されている」と記述することが独自研究だと規定する(さえぼーさんの主張だとそういうことになります)ことに賛同する余地は全くありません。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月11日 (木) 13:26 (UTC)
- 補足ですが「無差別な収集」は全く独立した別の問題ですよ。当該文書の一番の問題は「独立した別の問題を混ぜこぜに記述しているために論旨が迷走している」ことです。その欠陥を踏襲した議論はやめてください。
- それから、Wikipediaの私論が「空が青い」をテーマに展開されているのは困った話だなと思っています。「空が青い」なんて全く自明でない言及じゃないですか。もっと自明な言及をテーマに展開すれば建設的なのになというのは、最初にこの私論を読んだとき以来の思いです。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月11日 (木) 13:27 (UTC)
- Dakarananyanenさんも何故「保証がない」点について考えていただけないのでしょうか?「誰が実行しても同じ結論になる比較・確認」であるかないかの線引きもどうやって付ければいいですか?「ある作品の原作が登場人物Aの視点で記述されていて、それを原作とする映画がAの助手であるBという人物の視点で映像化されているとしましょう。」は「ある作品の原作が登場人物Aの視点で記述されてい(るように見え)て、それを原作とする映画がAの助手であるBという人物の視点で映像化されている(ように見える)」だけだと思います。「されているとしましょう。」はDakarananyanenさんが見た時の「判断」ですか?それとも「原作者・映画監督」がそう言いましたか?前者であれば独自研究でしょう。後者であればなぜ変えたのかに触れていればその部分を出典にすればいいでしょう。ただそう言っただけであればWP:IINFOですよね。という話しをしているつもりです。--ぷにを(会話) 2024年7月12日 (金) 00:44 (UTC)
- せっかく論点を整理分離しているのに、わざわざ議論を混乱させないでください。「されているとしましょう。」としたのは注目している論点から分離するべき問題だからですよ。
- いまの論点は、さえぼーさんが“「比較・確認して記述する」だけで「独自研究」”だなどと言い出したことについてですよ。だから「比較・確認」だけが問題になる状況を設定して、それに沿った議論を展開したのです。その状況設定を崩して「比較・確認」以外の問題が生じる可能性を指摘しても議論が混乱するだけです。
- 私が出した事例での「視点人物がA」「視点人物がB」という事実の可否は「比較・確認」の是非には無関係ですから、そこを議論しても何の益もありません。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月13日 (土) 11:52 (UTC)
- 何度読み直しても正しく理解できた気にならない程度に話がかみ合っていないのかなと感じています。「「比較・確認」だけが問題になる状況」ってどうやったら発生させられるんですか。「されているとしましょう。」のような仮定・前提がなければ発生しないと思っているのですが?ただ2つの事象を並べて「「比較・確認」だけが問題になる状況」であると判断できる線引き、保証がないから記述者が比較・確認したことを書いてはいけません。としているのがWikipedia:独自研究は載せないのはずです。--ぷにを(会話) 2024年7月17日 (水) 07:35 (UTC)
- 何が何でも話題を逸らして、本来の論点から逃げる気なんでしょうかね。だったら、逃げられないように少し設定を変えましょうか。とはいっても、本質的には全く同じなんですけどね。
- 「原作の視点人物はA」「映画の視点人物はB」という事実から「比較・確認」によって「視点人物がAからBに変更されている」という記述を導き出したとします。それ以外の状況設定は何も無し。この場合、
- 「原作の視点人物はA」「映画の視点人物はB」という記述に独自研究関連の問題が有る場合→その問題が「視点人物がAからBに変更されている」という記述に「そのまま継承」されるだけで、「比較・確認」によって問題は増えも減りもしない。
- 「原作の視点人物はA」「映画の視点人物はB」という記述に独自研究関連の問題が無い場合→「視点人物がAからBに変更されている」という記述にも全く問題は無い。
- 結局、いずれにしても「比較・確認」によって新たに問題が生じることにはならないわけです。
- さえぼーさんの主張にしても、現在提案されている文言にしても、「反例が1つでもあれば全くの誤り」ということになる類のものであることにも注意が必要です。今回、反例を1つ示しました。これで充分です。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月18日 (木) 13:30 (UTC)
- 「独自研究関連の問題が有る場合」、「独自研究関連の問題が無い場合」と分けている時点でスコープが違うのかなと改めて思いました。私からすれば「独自研究関連の問題が有る場合」しか存在しないです。「比較・確認」と「隠された独自研究(意図する・しない関係なく)」を見分けられる「線引き、保証」がない限り2つの事象を「比較・確認」する行為は独自研究として排除されるべき行為だと思います。(線引き、保証が付けられるのであれば独自研究の改定提案が先でしょう。)「反例が1つでもあれば全くの誤り」というのも理解できませんでした。逆に実例が1つでもあれば禁止されるべきもののはずです。私は発端になった沈黙のパレードを読んでも、観てもいませんが「湯川は事件が起きる以前から「なみきや」の常連になっている。」は本当にそうでしょうか?2回目でも常連風にふるまう人もいれば常連客じゃなくても常連さんのように対応する接客技術もありますが本当に常連さんでしたか?「草薙が増村の家族関係に関する事実をつかんだ経緯」は本当に省略されていましたか?実は画面の端に小さなメモが映っていませんでしたか?眼鏡や窓ガラスの反射はどうですか?もちろん、全て私の言いがかりでしょう。でもそれが本当にそうであると確認する側の視点も考えてください。それを確認するのにどれだけの時間と労力が必要ですか?二次資料の出典が1つ付いていれば〇〇で××がそうコメントしているとすぐに分かります。しかし、一次資料の比較を一編集者がしただけでそれを信じてくださいをWikipedia全体でしたらそれはもう百科事典としての質を保てなくなってしまうでしょう。--ぷにを(会話) 2024年7月19日 (金) 02:33 (UTC)
- どんな無理をしてでも話題を逸らそうとするんですね。困った人です。
- いま問題になっているのは「「比較・確認して記述する」のは明らかな独自研究」という文言の是非ですよ。「反例」云々も、この「比較・確認」に関する文言について言っているのであって、この文言に無関係な事例を挙げても何の反論にもなりません。
- 「沈黙のパレード」に関して挙げられた事例にしても、全て「映画の内容それ自体の要約」に関する問題であって、「原作との比較・確認」の問題ではありませんよね。そこをゴチャゴチャに混同しないで欲しい。
- 「独自研究関連の問題が無い」というのは「二次資料提示などの手段によって保証されている」という意味です。さえぼーさんの主張は、たとえ原作と映画の双方についてそういう条件が満たされた言及であっても、それを「比較・確認」すれば無条件で独自研究に該当するということですよね。それは認められないと言っているのです。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月21日 (日) 00:01 (UTC)
- はい、します。フィクション関係の記事について、一次資料だけでやってよいことはあらすじの簡単な要約程度で、それ以上のことをするとほぼ全て「分析」になり、独自研究になると思いますので、二次出典なしに原作と映像化の違いを書くなどというのは完全に「分析」だと思います。「○○に××はないが、△△にはある」などというのは書き手の判断が入っていますので、「出典から文章を抽出したり要約したりすること」とは全く異なります。二次出典なしに原作と映像化の比較などをウィキペディア記事に書くべきではありません。--さえぼー(会話) 2024年7月6日 (土) 00:17 (UTC)
- 単なる「比較・確認」が「分析」に該当しますか?それを独自研究の事例として挙げられている「分析」と規定してしまったら、出典から文章を抽出したり要約したりすることが全て「分析」に該当してしまう。Wikipediaが百科事典として成立しなくなりますよ。--Dakarananyanen(会話) 2024年7月5日 (金) 23:47 (UTC)
- 独自研究ではないという点に関してふむなるほどと思うところもあるのですが実際のところ過去にあった一例(私も参加しています)ですが、Wikipedia‐ノート:検証可能性#編集者がウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果は、読者に検証可能か?ではウェブページとそのアーカイブページを比較して記述が「削除されている」と書くのはWP:SYNであると複数の利用者に言われています。このレベルでも情報の合成と言われるのですがそれを避けて比較・確認した「何」を記述できるのか?とも思います。また、私の提案文の『また、たとえ二次資料に(中略)記述することは避けてください。』は現実世界の観点を欠いてるならば独自研究でなくとも百科事典には必要のない記述であるとする既存の文言を踏襲したものです。私としては『「原作」と「映像化作品」などをあなた自身が比較・確認して記述することは独自研究とされるため避けてください。』を撤去してもいいのですが、それを撤去したところで『「比較情報の列挙」』を受け入れないのが既存の文言だと考えています。--ぷにを(会話) 2024年7月4日 (木) 03:04 (UTC)
- 返信 (Dakarananyanenさん宛) 確認したいのですが、さえぼーさんが「「比較・確認して記述する」のは明らかな独自研究」と言ったというのはどの箇所でしょうか?何日何時のここで言っているとお示しください。--Haatouki(会話) 2024年7月21日 (日) 03:02 (UTC)
- Dakarananyanenさん 「比較・確認」以下の文言は7月5日 (金) 09:18 (UTC)の修正によってなくなりました。さえぼーさんはその修正案に賛成しています。ご確認ください。--2019jul07(会話) 2024年7月21日 (日) 03:37 (UTC)
- 他人が主張してもいないことを主張しているかのように言うのはおやめください。Dakarananyanenさんは「「独自研究関連の問題が無い」というのは「二次資料提示などの手段によって保証されている」という意味です。さえぼーさんの主張は、たとえ原作と映画の双方についてそういう条件が満たされた言及であっても、それを「比較・確認」すれば無条件で独自研究に該当するということですよね」とおっしゃっておられますが、全くの間違いです。私は「二次出典なしに「比較・確認して記述する」のは明らかな独自研究だと思います」と申し上げましたが、なぜかDakarananyanenさんは私が二次資料の出典があっても原作と映像化を比較した分析を書いてはいけないと主張したという完全に間違ったことをおっしゃっておられます。私は二次資料があっても比較・確認の分析を書いてはいけないということは一度も申し上げておりません。むしろそういうことを書く際は必ず二次資料を出せという主張を最初からしております。--さえぼー(会話) 2024年7月21日 (日) 14:59 (UTC)
- 『「独自研究関連の問題が無い」というのは「二次資料提示などの手段によって保証されている」という意味です。』この言葉が出てきてもう疲れてしまいました。さえぼーさんの言う通りですし、さえぼーさんの最初の言葉を仮に間違って受け取っていたとしてもその後もさえぼーさん、私のコメント等で散々それらに該当する二次出典だとか保証だとかの文字が出てきているはずです。なぜそれらの単語が出てきた時(特に二次出典)に意見が変わっていると指摘されなかったのか。議論相手の言わんとするところを読み取る気がないのか読み取れないのかのどちらかでしょうか。また、『「沈黙のパレード」に関して挙げられた事例にしても、全て「映画の内容それ自体の要約」に関する問題であって、「原作との比較・確認」の問題ではありませんよね。そこをゴチャゴチャに混同しないで欲しい。』について「 原作からの変更点の概略を追記」なんてわざわざ切り分けて並べたはずのDakarananyanenさんが「原作との比較・確認」の問題ではないと言うのはちょっと筋が通らないのでは?--ぷにを(会話) 2024年7月22日 (月) 02:41 (UTC)
- なるほど、どうやらさえぼーさん自身が論点を混乱しているようですね。
- (B)「比較・確認」の元になる情報についての「独自研究」性
- (S)「比較・確認」という行為そのものについての「独自研究」性
- は厳密に区別してください。こういう規範的な文章では、一般論としてこの手の厳密性は必須ですし、特に今の議論では重要な区別です。「原作との違いの記述は全面禁止」というルールを捏造したい人々が付け込む隙にもなっているわけですから。
- そもそも、今回の騒動の根本的原因は、既に指摘しているように、現行テキストがこの手の厳密性に対して無頓着で、複数の観点に基づく議論を混同した読み方を誘導する文章になっていることです。そして、この混同の結果「全面禁止」というWikipediaの理念に反する読み方が可能になってしまい、そう読める以上はそれを根拠とする行動を阻止できなかったというのが、今回の騒動の本質です。
- 話を戻しますと、(B)の意味では独自研究の問題が生じないが(S)の意味では生じる、あるいは逆に(S)の意味では独自研究の問題が生じないが(B)の意味では生じる、どちらも現実的に可能性が高い事象です。そして、さえぼーさんの主張にしても提案されている改訂文言にしても、(S)についてしか言及していない(=(B)についての当否は無関係)という意味にしか読めません。それが御意思に反するというのであれば、御発言を適切に訂正してください。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月22日 (月) 11:11 (UTC)
- 「なるほど、どうやらさえぼーさん自身が論点を混乱しているようですね」とおっしゃっておられますが、私が主張してもいないことを主張しているかのようにおっしゃった上、謝罪もなしに私に責任を転嫁するのはおやめいただきたいと思います。Dakarananyanenさんは極めてわかりにくい自論を展開しておられ、私も、おそらく利用者:ぷにをさんや議論に参加している他の利用者もDakarananyanenさんの主張はほとんど理解できておらず、賛同もしていません。正直申し上げてDakarananyanenさんの行動はWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないに該当しかねないと思います。--さえぼー(会話) 2024年7月22日 (月) 11:31 (UTC)
- 「主張してもいないこと」では全くないということはきちんと認識していただきたいんですけどね。もしかしたら「そんな主張していないつもりなのに(そういう主張になってしまうことに気付かずに)うっかり書いてしまった」ということなのかしれませんが。現段階では情報不足で確定的なことは言えませんが、おそらく先に指摘した「(B)と(S)の区別」が必要なところで区別せずに変なことを書いてしまったという可能性が高いと見ています。
- とにかく、現段階でおそらく最も重要な課題は
- 「二次資料などによって保証された記述」を「二次資料によらずに比較」して結論を出すことの是非
- です。これについて、さえぼーさんもぷにをさんもどうお考えなのか、現時点では全く判らない。そこが判らないと話が進められません。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月24日 (水) 02:05 (UTC)
- 返信 (Dakarananyanenさん宛) さえぼーさんが「「比較・確認して記述する」のは明らかな独自研究」と言ったというのはどの箇所かとの質問にお答えください。何日何時のここで言っているとお示しください。
- さえぼーさんに重ねて質問する前にまず謝罪が先だと思いますし、「今回の騒動」なんておっしゃってますが、方針が理解できないDakarananyanenさんがただ騒いでいるだけに私には見えます。--Haatouki(会話) 2024年7月24日 (水) 03:25 (UTC)
- 自明なことを、しつこく繰り返し訊いてくる意味が解らないのですが、とりあえず簡潔に回答だけ
- 2024年7月4日 (木) 16:28 (UTC)
- 二次出典なしに「比較・確認して記述する」のは明らかな独自研究だと思います。--Dakarananyanen(会話) 2024年7月24日 (水) 10:30 (UTC)
- Dakarananyanenさんにおかれましては、責任転嫁を繰り返し、無意味な論点を出してきて議論を攪乱するのはおやめください。あなたが現在やっておられるのはWikipedia:妨害的編集#いつまでも納得しないであると考えます。--さえぼー(会話) 2024年7月24日 (水) 09:05 (UTC)
- 「「二次資料などによって保証された記述」を「二次資料によらずに比較」して結論を出すことの是非」であれば全て非です。記述者がするべきことは比較された「結果」を出典付きで記述することで自身が「比較」したことを記述することではありません。--ぷにを(会話) 2024年7月24日 (水) 10:01 (UTC)
- つまり、ぷにをさんとしては、先に出した「視点人物がAからBに変更されている」というのは独自研究だという見解ですか?もちろん、「原作の視点人物はA」「映画の視点人物はB」という記述はきちんと二次資料などによって保証されているという前提ですよ。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月24日 (水) 10:35 (UTC)
- Dakarananyanenさんの「「原作の視点人物はA」「映画の視点人物はB」という記述はきちんと二次資料などによって保証されている」が理解できません。私の中での保証とは信頼できる情報源で「そのように書かれている」ことです。その場合、記述者自身が「比較」する必要がありません。原作者がこの作品の視点はAであると雑誌のインタビューで答え、映画監督がこの映画の視点はBであると別の雑誌のインタビューで答えた2つの資料があるとします。それでも単純な合成で「視点人物がAからBに変更されている」とされるべきではありません。原作者と映画監督が2人でインタビューでとか映画評論家が映画のレビューをしてとかで「視点人物がAからBに変更されている」と言っているような3つ目の記事を出典にそう書くべきです。--ぷにを(会話) 2024年7月25日 (木) 03:01 (UTC)
- どう反応するのかしばらく悩んでいました。ぷにをさんの記述に1か所どうしても意味が解らない部分があり、それが今の議論にとって重要であるような気もするし、そうではないような気もするからです。とりあえず、その部分に絞ってお伺いします。
- 「信頼できる情報源でそのように書かれている」から「比較する必要が無い」というのはどういうことでしょうか。今考えている状況は、元の情報源には比較情報が無く、かつその比較情報が当該記事の記述に不可欠と考えられる場合です。その場合に、例えば「信頼できる比較情報を探すべき」であるというのなら解りますが、「比較する必要が無い」というのは意味が解りません。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月27日 (土) 02:26 (UTC)
- 報告 Wikipedia:コメント依頼/Dakarananyanenを提出致しました。--Uenozuki(会話) 2024年7月28日 (日) 15:52 (UTC)
- 「記述者=Wikipedia記事編集者が比較したことを書いてはいけません」「信頼できる比較情報」=「視点人物がAからBに変更されている」であれば探すべきです。なければ記述するのを諦めてください。「信頼できる比較情報」≠「原作の視点はAである」、「信頼できる比較情報」≠「映画の視点はBである」です。これで分かりますか?--ぷにを(会話) 2024年7月29日 (月) 01:18 (UTC)
- いえ、そこが問題じゃないんです。問題は「比較する必要が無い」という「必要が無い」という言い方です。この表現は、当該記事の記述の文脈の中で「価値が無い」というような意味に理解するのが普通だと思うんですが、それはその比較が「信頼できるかどうか」とは無関係な価値観ですよね。言い換えると、「必要ではあろうが、信頼できる情報が無いから書けない」という趣旨なら意味が解るんですが、そもそも「必要が無い」というのは意味不明だということです。
- 今のこの議論、この手の微妙な齟齬をおろそかにすると、後々紛糾の元になりかねないくらい混乱していると思います。それゆえのお尋ねです。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年7月30日 (火) 01:24 (UTC)
- Dakarananyanenさん、「比較する必要が無い」は「比較をしなくてもいい」という一般的な言い回しだと思っていましたが伝わりませんでしたか?さらに言うと「記述者自身が比較する必要がありません。」なので「記述者自身が比較をしなくてもいい」と言っていますし私自身は最初からそのつもりでコメントしています。「記述者自身が比較をしなくてもいい」のは何故かと言えば今までのコメントの通りですが「比較した結果」を出典とすれば「記述者自身が比較する作業をしなくてもいい」ということです。その情報が必要ないとは言っていません。作業者がそのこと(比較する作業)をしなくてもいいとコメントしています。念のためですが「する必要がない とは」--ぷにを(会話) 2024年7月31日 (水) 01:29 (UTC)
- なるほど、「記述者自身が」を補って理解すればよいのですね。さらにいえば「記述者自身が、独自の(=二次資料などによらずに)判断で」とまで補えば良いのでしょうか。それなら意味が解ります(というか、この一言が無いと「比較する必要が無い」の意味が全く変わってしまいますよ)。
- 議論の前提が確認できたところで「比較すること自体が独自研究になるかどうか」という問題です。独自研究は一応WP:NORで定義されていますが、この定義は下手に解釈するとWP:COUNTSORTのような事例も独自研究と認定されてしまってWikipediaの編集が二進も三進も行かなくなることはずっと指摘されていることです。WP:NORの関連項目欄からリンクされているようなエッセイもありますが、身近なところでは最近改訂されたPJ:FILMPLOTの記述のような判断基準でしょうか。
- しかるに、現在提案されている改訂案は「映画と原作の比較に限って」このような要因は一切考慮せずに全て無条件に独自研究と規定すると宣言しているに等しいものです。ぷにをさんの主張も、そのように理解するのが自然でしょう。それは論理の流れとしておかしいと思います。「全て無条件に独自研究と規定する」根拠は何ですか?
- --Dakarananyanen(会話) 2024年8月1日 (木) 01:40 (UTC)
- 『「記述者自身が」を補って理解すればよいのですね。』なんてコメントしていますが私は最初からそうコメントしています。Dakarananyanenさんが補ったのではなくDakarananyanenさんが勝手にぶつ切りにした物を元に戻しただけです。さて少し理解が深まったところでですがWP:COUNTSORTですがカウント・並べ替えと件の原作・映画の比較についてが同列だとは思いません。提案文では『「原作」と「映像化作品」の比較など、一次資料から得られる情報のみであなた自身が分析・解釈などをした原作との違いは独自研究です。』となっています。カウントでも並び替えでも順位付けでもありません。PJ:FILMPLOTでいうストーリーは元が単一だと思うのですが違いましたか?その場合、書かれていないことを書けば独自研究と言われますが書かれていることを書くだけでは独自研究にはなり得ないと認識しています。--ぷにを(会話) 2024年8月1日 (木) 05:37 (UTC)
- 申し訳ありません、少し混乱してしまっていたようですね。ぷにをさんの7月31日の「「比較した結果」を出典とすれば」という記述の位置づけをよく考えるべきでした。結局ぷにをさんは「必要が無い」という表現を「記事に盛り込むべきかどうかという必要性」ではなく「情報源からの情報を編集する手続き上の必要性」の意味のみに使っているということでしょうか。そう考えて改めて読み直すと、確かに意味が通じるのですが、この文脈で「必要が無い」という表現をそういう意味に用いるのは極めて不自然な語彙選択だと感じます……とまあ、愚痴はこれぐらいにしておきましょうか。
- WP:COUNTSORTを「同列」とは考えていませんよ。方向性が同じだと指摘しているだけで、レベルが全然違います。しかし逆に言えば、レベルが違うだけのことで検討しなければならない方向は同じです。
- 例えば、先の「視点人物がAからBに変更されている」という事例、「原作の視点はAである/映画の視点はBである」という「信頼できる情報」が、「比較」という操作に関しては「一次資料」に該当することになります。ここから「視点人物がAからBに変更されている」と結論するのはWP:PSTSの「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合」に明らかに該当します。
- ただ、一見するとその後に続く「分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません」に抵触するようにも思える。少なくとも「解釈・評価」に該当する余地はありませんが「分析・合成」は問題かもしれません。ただ、この文脈で「分析・合成」に該当すると判断するのには強い抵抗感がある。WP:COUNTSORTだって厳密に言えば「分析・合成」です。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年8月3日 (土) 03:14 (UTC)
- Dakarananyanenさん、ぷにをさんの「必要が無い」はごく普通の語彙選択です。
- Wikipedia:独自研究は載せない 「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」
- Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料 「たとえば、ある小説についてあらすじを記述する場合、その小説の文章を出典とすることは可能ですが、それについての解釈には二次資料が必要です。一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」
- W4171n64Uさんやぷにをさんやさえぼーさんが根気よく懇切丁寧に説明してこられました。これでも理解できないというのであれば、Wikipedia:妨害的編集#いつまでも納得しないと判断されても仕方ないと思います。--Haatouki(会話) 2024年8月3日 (土) 06:48 (UTC)
- Dakarananyanenさん、『「比較」という操作に関しては「一次資料」に該当することになります。』の「比較」は誰がした比較ですか?記述者がした比較は「一次資料」ではありません。WP:COUNTSORTを何度も挙げていますがあちらはあくまで「私論」です。私論が方針を上回ることはないですし、私論が多くに受け入れられるものであればそれを考慮した方針の改定がなされるかもしれませんが、現状はそうなっていません。(個人的にもあの私論にすべて同意できていませんが。)--ぷにを(会話) 2024年8月6日 (火) 02:47 (UTC)
- 「比較」によって得られた「一次資料」ではありませんよ。「一次資料」を元にした「比較」について論じているんです。
- それから、WP:PSTSの「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合」の適用範囲についてどうお考えでしょうか。上記を書いていて、この考え方の適用を「比較」であるという理由だけで排除するのが、わりと根本的な問題点なのではないかと思えてきました。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年8月6日 (火) 09:09 (UTC)
- 『「一次資料」を元にした「比較」』=「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」はWP:SYNで明確に独自研究とされています。WP:PSTSの「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合」について「その資料」=「単一の資料」であると認識しています。それであれば情報の合成は行われません。例文も小説を元にしたあらすじであり、単一の情報源です。--ぷにを(会話) 2024年8月7日 (水) 01:06 (UTC)
- WP:SYNで言及されているのは「特定の観点を推進するような」であり、その条件だけで「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合」に反しますよ。つまり、この場合WP:SYNは反論の根拠になりません。
- 「その資料」=「単一の資料」と限定的に解する根拠は何ですか?また、「単一の資料の中の複数の情報」と「複数の資料の中の情報」をことさら区別する根拠は何ですか?
- --Dakarananyanen(会話) 2024年8月9日 (金) 09:55 (UTC)
- 「特定の観点を推進するような」は今回で言えば「変更されている」ことも一つの観点だと思いますが違いますか?『「単一の資料」と限定的に解する根拠は何ですか?』は正にWP:SYNがあるからです。『「単一の資料の中の複数の情報」と「複数の資料の中の情報」をことさら区別する根拠』も同じくです。「ゴンリにゴンリナーゼが含まれる。」と「ゴンリナーゼはがんリスクを低下させる。」を合成して「ゴンリはがんリスクを低下させる。」と書くと一見して「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる」ように思えるが独自研究であるのと同じ理由です。--ぷにを(会話) 2024年8月14日 (水) 03:06 (UTC)
- 同意できませんね。ゴンリナーゼの架空事例が独自研究なのは、一見すると「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる」ように思えるが、実は「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証でき」ないからです(私がずいぶん以前から「独自研究が隠されている」と呼んでいる事例の典型ですね)。また、『「単一の資料の中の複数の情報」と「複数の資料の中の情報」をことさら区別する根拠』にWP:SYNを持ち出すのにも同意できません。単一資料の中から複数の情報を取り出して、ゴンリナーゼの架空事例と同様の情報合成を行うことは可能です。ぷにをさんの立論だと、それは「単一資料」という理由で正当化されてしまうことになる。
- --Dakarananyanen(会話) 2024年8月15日 (木) 23:37 (UTC)
- 私がずいぶん前から「保証がない」と言っている事象です。「独自研究が隠されている」かどうか、「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる」かどうか独自研究の方針としての線引きがありません。「単一の資料の中の複数の情報」については「単一の資料」を勝手に私の考える「複数の資料の中の情報」の対局のような意味合いで受け取って回答した私のミスですのでその点は謝罪します。私の想定はあくまで「そのように書かれている出典」を元に記述するです。ゴンリであれば「ゴンリはがんリスクを上昇/低下させる」と書かれている出典がない限りそのように書けないです。--ぷにを(会話) 2024年8月16日 (金) 02:57 (UTC)
コメント Haatoukiさんの「避けてくださいでは弱い」という指摘に同意します。ねこざめさんが例示された作品のうち、『岸辺露伴_ルーヴルへ行く_(映画)#原作との違い』が個人的に最も得心できる使用でした。この使い方なら適っていると思いますので、Haatoukiさんの修正案に賛成致します。
製作過程で「原作との違い」が発生するので、二次資料を典拠として製作節のサブセクションにその意図を執筆するほうが、評価節に記すより適切でしょう。評価節に載せる場合も存在するとはいえ、前回コメントを一部修正致します。
ともあれ映像化された作品、当プロジェクトでは映画となりますが、
- そのあらすじを記さず、「原作との違い」節を設け、編集者が映像化作品と原作である一次資料を比較して気づいた違いを執筆する場
- その中身・内容を説明する記事なのに、当プロジェクトで推奨する節順に反し、「原作との違い」節を冒頭に置く
以上2点を是正できれば良いと考えます。--Uenozuki(会話) 2024年7月4日 (木) 04:23 (UTC)
- 返信 ご賛同いただきありがとうございます。
- 今回の提案はノート:沈黙のパレード#「原作との違い」についてがきっかけにはなりましたが、箇条書きは奨励されていないとか「独自研究」がどういうことかとか多くの方は理解しているとは思いますが、今までの経験から新規の編集者の方にも分かりやすくという思いがあります。
- 改めて、修正した提案文は
文学、演劇、ミュージカル、場合によっては別の映画など、他のフィクション作品を原作とする映画は数多くあります。映画製作者たちは映画作品にそのような素材を取り込む際、さまざまな理由から改変を加えます。なぜそのような改変が加えられたのか、それが映画製作にどのような影響を及ぼしたのか、関係者がそれにどのように反応したのか、などについては、本文中の適切な箇所に二次資料に基づいて詳細を記述してください。「原作」と「映像化作品」の比較など、一次資料から得られる情報のみであなた自身が分析・解釈などをした原作との違いは独自研究です。百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、映画とその原作という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述することは避けてください。「原作との違い」というような見出しのもとに、箇条書きしかなかったり、二次資料による出典がなかったりするような節を作るべきではありません。 ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。書き始めの記事や封切られたばかりの映画についての記事では、原作との違いは一箇所にまとめて記述するしかないかもしれませんが、記事が育つのに従い、それらはそれぞれ関連した箇所に組み込まれるか、記事から完全に取り除かれるべきです。
- 下線部分を加え、太字部分の変更を提案します。
- ご意見がありましたらよろしくお願いいたします。--Haatouki(会話) 2024年7月5日 (金) 09:18 (UTC)
- 賛成 最新のご提案に賛成致します。幾度の修正お疲れ様です。--Uenozuki(会話) 2024年7月5日 (金) 16:21 (UTC)
- 賛成 問題ないと思います。--さえぼー(会話) 2024年7月5日 (金) 16:24 (UTC)
- 賛成 こちらの提案に賛成します。--ぷにを(会話) 2024年7月8日 (月) 00:24 (UTC)
報告 最終提案に複数の賛成票をいただき1か月になりますので提案を反映しました。また同時に、2012年3月28日のWikipedia:スタイルマニュアル/フィクション関連の改訂(特別:差分/41843393)に伴う「現実世界の観点」を「現実世界の観点に立って記述する」に修正いたしました。--Haatouki(会話) 2024年8月5日 (月) 01:42 (UTC)
「Wikipedia:独自研究は載せない」の2013年の改定に伴う提案
[編集]現在、2013年の「Wikipedia:独自研究は載せない」の改定でなくなった
- 専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説は、...もっぱら一次資料に基づいていてもかまいません
という記述が載っています。これを
- 一次資料を使用してよいのは、事実について率直な記述を行う場合のみであり、特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合に限られます
という記述に変更することを 提案 します。--2019jul07(会話) 2024年7月18日 (木) 09:37 (UTC)
済 変更しました。--2019jul07(会話) 2024年7月26日 (金) 10:32 (UTC)
「二次資料によらない比較」が可能な条件を明示する提案
[編集]提示する機会が封じられそうなので、いま提示します。
#「原作との違い」の改訂提案の初期(2024年6月29日 (土) 22:53 (UTC))に指摘したように、現行プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いの問題点は複数の要因が重層的に絡まっており、全てを一括して議論するのは無理があります。しかし、#「原作との違い」の改訂提案において、特に2024年7月25日 (木) 03:01 (UTC)以降のぷにをさんとのやりとりから重要な問題点が見えてきているので、その観点に絞って提案します。具体的には、2024年8月5日 (月) 01:41 (UTC)の改訂で追加された
「原作」と「映像化作品」の比較など、一次資料から得られる情報のみであなた自身が分析・解釈などをした原作との違いは独自研究です。
という部分を下記に差し替えることを提案します。
これだけでは抽象的で解りにくいかもしれませんので、例えば以下のような例示を続けるべきかもしれません。
例えば、ある作品について「映像作品では視点人物が原作でAであるところBに変更されている」と記述することを考えてみましょう。この場合、の全てについて「二次資料、または特殊な知識を持たない検証」という条件が必要です。この事例では(3)の部分が「きわめて単純な比較」なので「特殊な知識を持たない検証」であることは明らかかもしれませんが、具体的な個々の事例では(3)に相当する部分が単純な比較では済まないかもしれません。したがって、個々の状況に応じて(1)(2)(3)の全てについてどんな情報源が必要かを判断し、必要なものを提示するようにしてください。
- (1)原作では視点人物がAであること
- (2)映像作品では視点人物がBであること
- (3)以上(1)(2)から「視点人物がAからBに変更されている」と結論できること
--Dakarananyanen(会話) 2024年8月23日 (金) 09:42 (UTC)
- 情報 提案者の利用者:Dakarananyanen(会話 / 投稿記録 / 記録)氏につきまして、こちらの審議での結果無期限ブロックが実施されました旨、参考までにこちらにもお知らせするものとします。なおこのコメントをもって、他のユーザの判断による議論の継続もしくは打ち切りを妨げるものではない事も、併せて申し添えておくものとします。--Holic 629W<Talk∥Cont.> 2024年8月25日 (日) 08:01 (UTC)
- 反対 提案者が無期限ブロック済みではありますが、反対票を明示します。
- 理由は、プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案で議論したとおり
- 一次資料から得られる情報のみで比較を行うことは独自研究になる可能性ではなく
- 一次資料から得られる情報のみであなた自身が分析・解釈などをした原作との違いは独自研究であり、ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではないことから、原作との違いを記述するには二次資料が必要だからです。--Haatouki(会話) 2024年8月26日 (月) 08:14 (UTC)
- 反対 二次資料の出典なしに比較を行うことを許容することに意義があると思えません。--さえぼー(会話) 2024年8月26日 (月) 21:07 (UTC)
- 提案 議論を終了することを提案します。提案者が無期限ブロック済み、それに賛同する方も直近の議論では居なかったと思います。改定提案が通る見込みはありませんし、提案内容を調整して引き継ぐ方もいないでしょう。--ぷにを(会話) 2024年8月27日 (火) 00:14 (UTC)
- 賛成 ぷにをさんの意見に賛同し、議論を終了することに賛成します。--Haatouki(会話) 2024年8月27日 (火) 01:24 (UTC)
- 賛成 ぷにをさんのご提案に賛成致します。--Uenozuki(会話) 2024年8月27日 (火) 11:01 (UTC)
- 終了 本議論は提案者の無期限ブロックと提案への賛同者がいないため改定せず終了となりました。--ぷにを(会話) 2024年9月5日 (木) 02:33 (UTC)
- 賛成 ぷにをさんのご提案に賛成致します。--Uenozuki(会話) 2024年8月27日 (火) 11:01 (UTC)
- 賛成 ぷにをさんの意見に賛同し、議論を終了することに賛成します。--Haatouki(会話) 2024年8月27日 (火) 01:24 (UTC)