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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム
P. Cornelius P. f. Cn. n. Scipio Nasica
出生 不明
死没 紀元前141年
出身階級 パトリキ
一族 スキピオ家
氏族 コルネリウス氏族
官職 上級按察官紀元前169年
トリブヌス・ミリトゥム紀元前168年-167年)
法務官紀元前165年
執政官 I紀元前162年
監察官紀元前159年
執政官 II紀元前155年
レガトゥス紀元前152年
トリブヌス・ミリトゥム紀元前150年
最高神祇官紀元前150年-141年
プリンケプス・セナトゥス紀元前147年-141年)
指揮した戦争 第三次マケドニア戦争
対ダルマシア戦争
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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムラテン語: Publius Cornelius Scipio Nasica Corculum紀元前141年没)は、共和政ローマの政治家、軍人。執政官を二度務め、第二次ポエニ戦争から第三次ポエニ戦争の戦間期に活躍した。マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)の政敵。

以降、本記事では名を「コルクルム」あるいは「ナシカ・コルクルム」と記す。

生涯

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父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ。妻はスキピオ・アフリカヌスの娘で、アフリカヌスの娘の中でも年長の娘となる。

紀元前168年ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスのもとで第三次マケドニア戦争に参戦。紀元前162年に執政官に就任するが、吉凶でよくない兆候が出たのでその座を同僚とともに降りてしまう. 紀元前159年マルクス・ポピッリウス・ラエナスとともにケンソルに就任、この時に元老院あるいは民会の承認なくして官職ある人物の像を建立することを禁じている。

紀元前155年に再び執政官に当選、ダルマティアに出征して勝利をおさめ凱旋式を挙行する。紀元前150年には最高神祇官に就任、紀元前147年には元老院の第一人者(プリンケプス)となる。

第二次ポエニ戦争で敗北したカルタゴを滅亡させようと扇動するカトに対して反論、潜在的なライバルを持たないローマは腐敗して衰亡すると論じた。カトが「それにつけてもカルタゴは滅ぼされるべきである」と演説内容の如何にかかわらず締めくくったのに対して、コルクルムは同じように演説の最後に「それにつけてもカルタゴは存続させるべきである」とやり返したと伝えられる。

しかしながら、元老院の第一人者の地位にいたのにもかかわらずコルクルムの政治的影響力はカトに対して劣勢、また彼の主張はカルタゴの目覚しい復興に危惧した多数の元老院議員からの賛同は得られず、マッシニッサ率いるヌミディア王国のカルタゴへの干渉を抑えきることができなかった。そして第二次ポエニ戦争の休戦条約を破ってカルタゴはヌミディア王国に宣戦布告、ローマはカルタゴへの遠征を決議する。

第三次ポエニ戦争当時コルクルムは存命であった。皮肉にもその司令官に任命されカルタゴを完全に滅ぼしたのはスキピオ家の者であるスキピオ・アエミリアヌスだった。紀元前141年、子プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ最高神祇官の職務を譲ることが元老院で認められ、その直後に死去したものと考えられている。

関連項目

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公職
先代
ティベリウス・センプロニウス・グラックス II
マニウス・ユウェンティウス・タルナ
執政官 I
同僚:ガイウス・マルキウス・フィグルス I(辞任)

補充:プブリウス・コルネリウス・レントゥルス
補充:グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス
紀元前162年

次代
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ
ガイウス・ファンニウス・ストラボ
先代
ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・ルプス
ガイウス・マルキウス・フィグルス II
執政官 II
同僚:マルクス・クラウディウス・マルケッルス II
紀元前155年
次代
ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス
クィントゥス・オピミウス
先代
ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス
クィントゥス・マルキウス・ピリップス
紀元前164年 LIII
監察官
同僚:マルクス・ポピッリウス・ラエナス
紀元前159年 LIV
次代
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ
ガイウス・カッシウス・ロンギヌス
紀元前154年 LV
宗教の称号
先代
マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前187年の執政官)
ローマ最高神祇官
紀元前150年 – 紀元前141年
次代
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ