ブルターニュ君主一覧
ブルターニュ君主一覧ではブルターニュの統治者について列挙する。統治者達は時代ごとに様々な称号を有していた。彼等は、ある時は選出され、またある時は征服や謀略、世襲権によって地位を獲得した。世襲の公は時にはブルターニュ女公の称号を有する女性の統治者であった。公国の主要な都市ならびに地域は伯によって統治されており、彼等はしばしば公との争いで自らの地位を手に入れたり、自身が公になったりした。
ローマ帝国の衰退期にガリアにおける最初期のブルトン人の支配者はコルヌアイユ及びドゥムノニア の小王国の"王"と呼ばれていた。これらの何人かの王はアルモリカ半島のあらゆるブリトン住民に対して支配権の形を有していたらしく、リオタムスは年代記家のヨルダネスによってブルトン王と呼ばれている。けれどもブルターニュ全体の統治者は明らかではなく、現地の伯の封土に分割されていた。
これらの幾つもの小国に分裂していたブルターニュを840年代に統一したのがノミノエであり、彼が統一ブルターニュ王国の初代王となった(実質的な王は息子のエリスポエが最初である)。王国は領域を拡大したものの、10世紀のヴァイキング(ノルマン人)によって国土がほとんど侵食されるに至った。
この危機的状況を打開したのがアラン2世である。彼は939年にトランの戦いでヴァイキングを撃破して祖国を解放したが、この時の勝利が ブルターニュ公国建国の起源であり、それはブルターニュとノルマンディーの国境であるクエノン川にて建国された[1]。942年にアラン2世は西フランク国王ルイ4世に臣従を誓ったものの、公国は1123年にフランス国王ルイ6世肥満王がナント司教を承認するまでフランス王家が関心を得るところではなかった[2]。けれどもその他のブルターニュ公は、1202年にアルテュール1世が国王フィリップ2世尊厳王を自らの君主と認めるまでアラン2世の臣従の儀を繰り返した[3]。
領域は大概、公国と呼ばれ、その統治者は独立した主権を有する公と見做されていた。けれどもある歴史家は、12世紀半ば以前のブルターニュ公はよくフランス国王からは伯と呼ばれており、当時、フランス王国は1つの伯領に過ぎないとの見方をしていたとの見解を取っている[要出典]。1297年にブルターニュはフランス貴族における公爵に昇格したとしている[4]。この見解はシャルル8世温厚王並びにルイ12世人民王の2代に渡る王が、公国並びに 両王と立て続きに結婚したアンヌ・ド・ブルターニュの権利に近付いたこととは一致しない。大部分の歴史家は、上記の両王の時代及び公位が1532年にアンリ2世のもとに組み込まれるまでブルターニュ公国はフランス王権から独立していたと見做している。
初期支配者
[編集]- コナン・メリアドック (4世紀) – 伝説上のブルターニュ初代君主
- ブディク2世 (6世紀初頭) –アルモリカ王
- ワロック2世 (6世紀後半) - ブロ・ワロック王
- ユディカエル (590頃-657年) - ブリトン上王、ドゥムノニア王; ドゥムノニアとブロヨロスのブリトン人の王国を統一; ダゴベルト1世とエリギウスを承認。
- モルマン (在位814年–818年)- 自らが封臣として仕えていたカール大帝が814年の死去に伴いブリトン人貴族からブルターニュ王と呼ばれた最初の君主。
- ルイ敬虔王下のフランク王国統治時代 (819年-822年) - モルマンはフランク王国による支配に対して反乱を起こしたもののルイ敬虔王に敗北した。フランク統治時代のブルターニュは同時にネウストリア辺境伯領に脅かされていた。
- ヴィオマルク (在位822年–825年) – ブリトン人復権のためのフランク王国に対する反乱を成功に導いた;ブルターニュ辺境伯領のナント伯ランベルト1世に殺された。
ブルターニュ王
[編集]- ノミノエ (ネヴェノエ) (在位841年–851年)、ヴァンヌ伯、初代ブルターニュ公
- エリスポエ (在位851年–857年)、ヴァンヌ伯、ノミノエの息子。公として統治し、それから王として統治
- サロモン (サラウーン) (在位857年–874年)、レンヌ伯兼ナント伯
- 内戦及び第1次ヴァイキングによる侵攻(874年 – 888年)期間の分割統治
- アラン1世 (ブルターニュ王)、または大アラン
- 第二次ヴァイキングの侵攻ならびに占領 (907年-937年)
- グルマエロン、コルヌアイユ伯 ( 907年以降、王国の後見人として統治)
ブルターニュ公
[編集]ナント家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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アラン2世 狡猾公 (Alan al Louarn) 936年/938年–952年 |
919年以前 ポーエル伯マテュエドイとアラン1世の娘の子。 |
(1) ロシーユ・ダンジュー 943年 1女 (2) ロシーユ・ド・ブロワ 949/51年以前 1男 |
952年頃 ナント 約33歳没 | |
ドロゴ (Drogon) 952年–958年 |
949/52年頃 アラン2世の1人息子 |
未婚 | 958年頃 アンジェ 5–9歳没 | |
オエル1世 (Hoel Iañ ) 960年–981年 |
930年頃 アラン2世とジュディトの庶子 |
未婚 | 981年頃 | |
グエレス (Gwereg) 981年-988年 |
933年頃 アラン2世とジュディトの庶子 |
アランブルジュ・ダンスニ 981年以降 1男 |
988年頃 | |
アラン (Alan) 988年-990年 |
981年頃 グエレスとアランブルジュ・ダンスニの1人息子 |
未婚 | 990年頃 9歳没 |
レンヌ家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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コナン1世 (Konan Iañ) 990年–992年 |
927年頃 レンヌ伯ジュディカエルとジェルベルジュ(アラン2世の娘とも)の長男 |
エルマンガルド=ジェルベルジュ・ダンジュー 973年 5人の子 |
992年6月27日 コンクルイユ 64–65歳没 | |
ジョフロワ1世 (Jafrez Iañ) 992年–1008年 |
980年頃 コナン1世とエルマンガルド=ジェルベルジュ・ダンジューの長子 |
アヴォワーズ・ド・ノルマンディー 996年 4人の子 |
1008年11月20日 27–28歳没 | |
アラン3世 (Alan III) 1008年–1040年 エオン1世と共同統治 (1008年–1034年) |
997年頃 ジョフロワ1世とアヴォワーズ・ド・ノルマンディーの長子 |
ベルト・ド・ブロワ 1018年 2人の子 |
1040年10月1日 ヴィムティエ 42–43歳没 | |
エオン1世 (Eozen I) 1008年–1034年 アラン3世と共同統治 |
999年頃 ジョフロワ1世とアヴォワーズ・ド・ノルマンディーの次男 |
オルゲン・ド・コルヌアイユ 6人の子 |
1079年頃 セソン 79–80歳没 | |
コナン2世 (Konan II) 1040年–1066年 摂政としてエオン1世と共同統治 (1040年–1057年) |
1033年頃 アラン3世とベルト・ド・ブロワの1人息子 |
未婚 | 1066年12月11日 シャトー=ゴンティエ 32–33歳没 | |
アヴォワーズ (Hawiz) 1066年–1072年 オエル2世と共同統治 |
1037年頃 アラン3世とベルト・ド・ブロワの1人娘 |
1066年 7人の子 |
1072年8月19日 34–35歳没 | |
オエル2世 (Hoel II) 1066年–1072年 アヴォワーズと共同統治 |
1031年頃 コルヌアイユ伯アラン・カニアールとジュディト・ド・ナントの長子 |
1084年4月13日 52–53歳没 |
コルヌアイユ家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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アラン4世 若公 (Alan IV Fergant) 1072年–1112年 摂政としてオエル2世と共同統治 (1072年–1084年) |
1060年以前 オエル2世とアヴォワーズの長子 |
(1) コンスタンス・ド・ノルマンディー 1086/88年 子を儲けず (2) エルマンガルド・ダンジュー 1093年 3人の子 |
1119年10月13日 サン・ソヴール修道院 60歳没 | |
コナン3世 肥満公 (Konan III) 1112年–1148年 |
1093年頃-1096年 アラン4世とエルマンガルド・ダンジューの長子 |
モード・フィッツロイ 1112年 3人の子 |
1148年9月17日 54–58歳没 | |
ベルト (Berta) 1148年–1156年 ウード2世と共同統治 |
1114年頃 コナン3世とモード・フィッツロイの長女 |
(1) 初代リッシュモン伯アラン 1137/8年 3人の子 (2) ポルオエ子爵ウード2世 1148年 3人の子 |
1156年頃 41–43歳没 | |
ウード2世 (Eozen II) 1148年–1156年 ベルトと共同統治 |
? ポルオエ子爵ジョフロワとアヴォワーズの長子 |
(1) ブルターニュ女公ベルト 1148年 3人の子 (2) ジャンヌ・エレオノール・ド・レオン 1167年8月 2、3人の子 |
1170年頃 |
パンティエーヴル家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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コナン4世黒公 (Konan IV) 1156年–1171年 |
1138年頃 初代リッシュモン伯アランとベルトの1人息子 |
マーガレット・オブ・ハンティングダン 1160年 1女 |
1171年2月20日 33歳没 | |
コンスタンス (Konstanza) 1166年–1201年 ジョフロワ2世と共同統治 (1181年–1186年) 6代チェスター伯ラヌルフと共同統治 (1188年–1199年) |
1161年6月12日 コナン4世とマーガレット・オブ・ハンティングダンの1人娘 |
(1) ジョフロワ2世 1181年7月 3人の子 (2) 6代チェスター伯ラヌルフ 1188年2月3日 子を儲けず (3) ギィ・ド・トゥアール 1199年10月 2女 |
1201年9月5日 ナント 40歳没 | |
ジョフロワ2世 (Jafrez II) 1181年–1186年 コンスタンスと共同統治 |
1158年9月23日 イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの4男 |
コンスタンス 1181年7月 3人の子 |
1186年8月19日 パリ 27歳没 | |
ラヌルフ (Ranulf) 1188年–1199年 コンスタンスと共同統治[5] |
1172年頃 イングランド、ポーイス、モンゴメリーシャー 5代チェスター伯ユーグとベルトラード・ド・モンフォールの一人息子 |
(1) コンスタンス 1188年2月3日 子を儲けず、1199年離婚 (2) クレマンス・ド・フージェール 1200年10月7日以前 子を儲けず |
1232年10月28日 イングランド、バークシャー、ウォリングフォード 59–60歳没 |
プランタジュネ家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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アルテュール1世 (Arzhur Iañ) 1196年–1203年 |
1187年3月29日 ナント ジョフロワ2世とコンスタンスの1人息子 |
未婚 | 1203年4月3日 ルーアン 16歳没 |
ジョフロワ2世とコンスタンスの長女でアルテュール1世の唯一の姉妹で同じく未婚であったアリエノールがイングランドの地で1241年に死ぬまで監禁の身にあったことは、彼女が公位を継承するのを不可能なものとした。
トゥアール家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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アリックス (Alis) 1203年-1221年 ピエール1世と共同統治 (1213年–1221年) |
1200年頃 ギ・ド・トゥアールとコンスタンスの長女 |
ピエール1世 1213年 3人の子 |
1221年10月21日 21歳没 | |
ピエール1世 モークレール (Pêr Iañ) 1213年–1221年 アリックスと共同統治 |
1190年頃 ドルー伯ロベール2世とヨランド・ド・クシーの次男 |
(1) アリックス 1213年 3人の子 (2) ニコル |
1250年7月6日 ダミエッタ海上 59–60歳没 |
カペティエンヌ・ド・ドルー家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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ジャン1世 赤毛公 (Yann Iañ ar Ruz) 1221年-1286年 統治者としてピエール1世 と共同統治 (1221年–1237年) |
1217/18年頃 ピエール1世とアリックスの長男 |
ブランシュ・ド・ナヴァール エーヌ県、シャトー=ティエリ 1236年1月16日 8人の子 |
1286年10月8日 モルビアン県、フェレル、イル城 67–69歳没 | |
ジャン2世 (Yann II) 1286年–1305年 |
1239年1月3/4日 ジャン1世とブランシュ・ド・ナヴァールの長男 |
ベアトリス・ダングルテール ロンドン、ウェストミンスター寺院 1260年12月25日 8人の子 |
1305年11月16日 リヨン 66歳没 | |
アルテュール2世 (Arzhur II) 1305年–1312年 |
1262年7月2日 ジャン2世とベアトリス・ダングルテールの長男 |
(1) マリー・ド・リモージュ トゥール 1277年 3人の子 (2) ヨランド・ド・ドルー 1292年5月 6人の子 |
1312年8月27日 モルビアン県、フェレル、イル城 50歳没 | |
ジャン3世 幸運公 (Yann III) 1312年–1341年 |
1286年3月8日 メーヌ=エ=ロワール県、シャントソー城 アルテュール2世とマリー・ド・リモージュの長男 |
(1) イザベル・ド・ヴァロワ 1298年2月18日 子を儲けず (2) イザベル・ド・カスティーユ ブルゴス 1310年6月21日 子を儲けず (3) ジャンヌ・ド・サヴォワ シャルトル 1330年3月21日 子を儲けず |
1341年4月30日 カーン 55歳没 | |
ブルターニュ継承戦争 (1341年–1364年) | ||||
ジャンヌ・ド・パンティエーヴル (Janed) 1341年-1364年 シャルル1世と共同統治 |
1319年頃 ギィ・ド・パンティヴェールとジャンヌ・ド・アヴォグールの1人娘 |
パリ 1337年6月4日 5人の子 |
1384年9月10日 ガンガン 61–62歳没 | |
シャルル1世 (Charlez Iañ) 1341年–1364年 ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと共同統治 |
1319年頃 ブロワ ブロワ伯ギー1世とマルグリッド・ド・ヴァロワの次男 |
1364年9月29日 オーレー 44–45歳没 |
カペティエンヌ・ド・モンフォール家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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ブルターニュ継承戦争 (1341年–1364年) | ||||
ジャン・ド・モンフォール(ジャン4世) (Yann Moñforzh) 1341年-1345年5月 |
1293年頃 アルテュール2世とヨランド・ド・ドルーの1人息子 |
ジャンヌ・ド・フランドル シャルトル 1329年3月 2人の子 |
1345年9月26日 エンヌボン、エンヌボン要塞 51–52歳没 | |
ジャン4(5)世 征服公 (Yann IV) 1345/65年-1399年 |
1339年頃 ジャン・ド・モンフォールとジャンヌ・ド・フランドルの1人息子 |
(1) メアリー・オブ・イングランド オックスフォードシャー、ウッドストック、ウッドストック宮殿 1361年夏 子を儲けず (2) ジョーン・ホランド ロンドン 1366年3月 子を儲けず (3) ジャンヌ・ド・ナヴァール サレ・プレ・ゲランド 1386年10月2日 9人の子 |
1399年11月1/2日 ナント 59–60歳没 | |
ジャン5(6)世 賢公 (Yann V ar Fur) 1399年–1442年 |
1389年12月24日 モルビアン県、ヴァンヌ、エルミーヌ城 ジャン4世とジャンヌ・ド・ナヴァールの長男 |
ジャンヌ・ド・フランス パリ、オテル=サン・ポル 1396年9月19日 7人の子 |
1442年8月29日 ナント、マノワール・ド・ラ・トゥーシュ 52歳没 | |
フランソワ1世 最愛公 (Frañsez Iañ) 1442年–1450年 |
1414年5月11日 ヴァンヌ ジャン5世とジャンヌ・ド・フランスの長男 |
(1)ヨランド・ダンジュー アンボワーズ 1431年8月20日 1人の息子 (2) イザベル・デコス オーレー城 1442年10月30日 2女 |
1450年7月17日 モルビアン県、ヴァンヌ、エルミーヌ城 36歳没 | |
ピエール2世 単純公 (Pêr II) 1450年–1457年 |
1418年6月17日 ナント ジャン5世とジャンヌ・ド・フランスの次男 |
フランソワーズ・ダンボワーズ 1442年頃 子を儲けず |
1457年9月22日 ナント 41歳没 | |
アルテュール3世 正義公 (Arzhur III) 1457年–1458年 |
1393年8月24日 ヴァンヌ、シュシニオ城 ジャン4世とジャンヌ・ド・ナヴァールの次男 |
(1) マルグリッド・ド・ブルゴーニュ ディジョン 1423年10月10日 子を儲けず (2) ジャンヌ・ダルブレ ネラック 1442年8月29日 子を儲けず (3) カトリーヌ・ド・サン=ポル 1445年7月2日 子を儲けず |
1458年12月26日 ナント 65歳没 | |
フランソワ2世 (Frañsez II) 1458年–1488年 |
1433年6月23日 クリッソン城 リシャール・デタンプとマルグリッド・ドルレアンの長男 |
(1) マルグリット・ド・ブルターニュ エルミーヌ城 1455年11月16日 1人の子 (2) マルグリット・ド・フォワ クリッソン城 1474年6月27日 2人の娘 |
1488年9月9日 クエロン 55歳没 | |
アンヌ (Anna) 1488年–1514年 シャルル2世と共同統治 (1491年–1498年) ルイ1世と共同統治 (1499年–1514年) |
1477年1月25日 ナント城 フランソワ2世とマルグリット・ド・フォワの長女 |
(1) 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 (代理人による) レンヌ大聖堂 1490年12月19日 子を儲けず (2) フランス王シャルル8世 ランジェ城 1491年12月19日 4人の子 (3) フランス王ルイ12世 ナント城 1499年1月8日 4人の子 |
1514年1月9日 ブロワ城 36歳没 |
カペティエンヌ・ド・ヴァロワ=オルレアン家
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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シャルル2世 温厚公 (Charlez II) 1491年–1498年 アンヌと共同統治 |
1470年6月30日 アンボワーズ城 フランス王ルイ11世とシャルロット・ド・サヴォワの1人息子 |
アンヌ ランジェ城 1491年12月19日 4人の子 |
1498年4月7日 アンボワーズ城 27歳没 | |
ルイ1世 人民 の 父公 (Loeiz I) 1499年–1514年br />アンヌと共同統治 |
1462年6月27日 ブロワ城 オルレアン公シャルル1世とマリー・ド・クレーヴの1人息子 |
(1) ジャンヌ・ド・フランス モントリシャール城 1476年9月8日 子を儲けず (2) アンヌ ナント城 1499年1月8日 4人の娘 (3) マリー・ダンクルテール アブヴィル大聖堂 1514年10月9日 子を儲けず |
1515年1月1日 パリ、オテル・ド・トゥールネール 52歳没 | |
クロード (Klaoda) 1514年–1524年 フランソワ1世と共同統治 (1514年–1524年) |
1499年10月14日 ロモランタン=ラントネー フランス王ルイ12世とアンヌの長女 |
フランソワ1世 サン=ジェルマン=アン=レー城 1514年5月18日 8人の子 |
1524年7月20日 ブロワ城 24歳没 | |
フランソワ1世 (Frañsez Iañ, roue Bro-C'hall) 1514年–1524年 クロードと共同統治 (1514年–1524年) |
1494年9月12日 コニャック城 アングレーム伯シャルルとルイーズ・ド・サヴォワの1人息子 |
(1) クロード サン=ジェルマン=アン=レー城 1514年5月18日 8人の子 (2) レオノール・デ・アウストリア ヴェイエン修道院 1530年8月7日 子を残さず |
1547年3月31日 ランブイエ城 52歳没 | |
フランソワ3世 (Frañsez III) 1524年–1536年 |
1518年2月18日 アンボワーズ城 フランソワ1世とクロードの長男 |
未婚 | 1536年8月10日 トゥルノン城 18歳没 | |
アンリ (Herri) 1536年–1547年 |
1519年3月31日 サン=ジェルマン=アン=レー城 フランソワ1世とクロードの次男 |
カトリーヌ・ド・メディシス マルセイユ大聖堂 1533年10月28日 10人の子 |
1559年7月10日 プラース・ド・ヴォージュ 40歳没 |
儀礼上の称号としてブルターニュ公を名乗った人物
[編集]名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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ルイ・ド・フランス 1704年-1705年 |
1704年6月25日 ヴェルサイユ宮殿 ブルゴーニュ公ルイとマリー・アデライード・ド・サヴォワの長男 |
未婚 | 1705年4月13日 ヴェルサイユ宮殿 1歳没 | |
ルイ・ド・フランス 1707年–1712年 |
1707年1月8日 ヴェルサイユ宮殿 ブルゴーニュ公ルイとマリー・アデライード・ド・サヴォワの次男 |
未婚 | 1712年2月18日 ヴェルサイユ宮殿 5歳没 | |
フランソワ・ド・ブルボン 1973年–1984年 |
1972年11月22日 マドリッド ガディス公アルフォンソ・デ・ボルボーンとマリア・デル・カルメン・マルチネス=ボルディウ・イ・フランコの長男 |
未婚 | 1984年2月7日 パンプローナ 11歳没 |
ブルターニュ公家(ナント家~トゥアール家)系図
[編集]ロシーユ (ブロワ伯ティボー1世姉妹) | アラン2世巻髭公 (c.900-952) 反ノルマンの指導者 ナント占領937年 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドロゴ | 庶子 オエル1世 | 庶子 グエレス | コナン1世背曲公 レンヌ伯 | エルマンガルド (アンジュー伯ジョフロワ1世娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
庶子 ジュディカエル ナント伯 | アラン | アヴォワーズ (ノルマンディー公リシャール1世娘) | ジョフロワ1世 | ジュディット (982-1017) =ノルマンディー公リシャール2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブディク ナント伯 | ジュディット ナント女伯 | アラン コルヌアイユ伯 | アラン3世 | ベルト (ブロワ伯ウード2世娘) | ユーグ4世 (-1051) メーヌ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アニェス =エオン1世 | オエル2世 コルヌアイユ伯 | アヴォワーズ | コナン2世 | メーヌ伯家 | エオン1世 パンティエーヴル伯 | アニェス (オエル2世姉妹) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コンスタンス (イングランド王ウィリアム1世娘) | アラン4世 | エルマンガルド (アンジュー伯フルク4世娘) | ジョフロワ1世 パンティエーヴル伯 | ブライアン コーンウォール伯 | アラン(赤卿) リッチモンドの領主 | アラン(黒卿) リッチモンドの領主 | スティーブン リッチモンドの領主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マティルダ (イングランド王ヘンリー1世庶子) | コナン3世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オド2世 ポルオエ子爵 | ベルト | アラン(黒伯) 初代リッチモンド伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コナン4世 | マーガレット (ハンティンドン伯ヘンリー娘) | ハンフリー3世・ド・ブーン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョフロワ2世 (イングランド王ヘンリー2世子) | コンスタンス | ギー・ド・トゥアール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルテュール1世 | アリックス | ピエール1世 (ドルー伯ロベール2世子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドルー家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ John Le Patourel, Feudal Empires: Norman and Plantagenet; ed. Michael Jones, (The Hambledon Press, 1984), p. 241.
- ^ Michael Jones, The Creation of Brittany, (The Hambledon Press, 1988), 4.
- ^ Michael Jones, The Creation of Brittany, 4.
- ^ Michael Jones, The Creation of Brittany, 287.
- ^ ただしラヌルフはブルターニュ公の称号を終始一貫用いておらず、公国を統治したこともなく、同地で重要な役割を果たしたことは知られていない。