フレデリック・ハーヴィー (第3代ブリストル侯爵)
第3代ブリストル侯爵フレデリック・ウィリアム・ジョン・ハーヴィー(英語: Frederick William John Hervey, 3rd Marquess of Bristol、1834年6月28日 – 1907年8月7日)は、イギリスの貴族、政治家。保守党に属し、1859年から1964年まで庶民院議員を務めた[1]。1834年から1859年までハーヴィー卿の、1859年から1864年までジャーミン伯爵の儀礼称号を使用した[2]。
生涯
[編集]第2代ブリストル侯爵フレデリック・ウィリアム・ハーヴィーと妻キャサリン・イザベラ(Katherine Isabella、旧姓マナーズ(Manners)、1809年2月4日 – 1848年4月20日、第5代ラトランド公爵ジョン・ヘンリー・マナーズの娘)の息子として、1834年6月28日にパトニー・ヒースのブリストル・ハウス(Bristol House)で生まれ、7月31日にパトニーのセント・メアリー教会で洗礼を受けた[1]。イートン・カレッジで教育を受けた後、1853年2月26日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1856年にM.A.の学位を修得した[2]。
1854年12月14日にウェスト・サフォーク民兵隊の中尉に任命され[3]、1856年3月17日に大尉に昇進[4]、1865年1月10日に名誉隊長に任命された[5]。1860年11月8日、サフォークの副統監に任命された[6]。サフォークの治安判事も務め[7]、1886年2月15日にはサフォーク統監に任命され[8]、1907年に死去するまで務めた[1]。
1859年イギリス総選挙で保守党候補としてサフォーク西部選挙区から出馬、1,958票(得票数1位)で当選した[9]。1864年10月30日に父が死去すると、ブリストル侯爵位を継承した[1]。
1883年時点でサフォークに16,981エーカーの、リンカンシャーに13,745エーカーの、エセックスに1,131エーカーの、サセックスに157エーカーの領地を所有し、合計で年収41,270ポンド相当だった[1]。
1907年8月7日にイックワースで死去、10日に同地で埋葬された[1]。息子がおらず、爵位は弟オーガスタス・ヘンリー・チャールズの息子フレデリック・ウィリアム・フェインが継承した[10]。
ブリストル侯爵死去の翌日、『タイムズ』紙のルイス・アップルトン(Lewis Appleton)は侯爵が貴族院で国際紛争の平和的解決を訴えたと評価した[1]。
家族
[編集]1862年3月4日、ジェラルディン・ジョージアナ・メアリー・アンソン(1843年[11] – 1927年1月25日、ジョージ・アンソン閣下の娘)と結婚、2女をもうけた[10]。
- キャサリン・アディン・ジェラルディン(Katherine Adine Geraldine、1864年1月15日[7] – 1948年11月2日) - 1886年3月4日、アラン・ハーヴィー・ドラモンド(Allan Harvey Drummond、1913年1月28日没)と結婚、子供あり[10]
- アリス・アデライザ(Alice Adeliza、1874年3月9日[7] – 1962年[12]) - 1896年8月29日、第3代ヒルトン男爵ヒルトン・ジョリフ(1945年5月26日没)と結婚、子供あり[10]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 328–329.
- ^ a b "Hervey, Lord Frederick William John. (HRVY853FW)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ "No. 21642". The London Gazette (英語). 19 December 1854. p. 4133.
- ^ "No. 21862". The London Gazette (英語). 21 March 1856. p. 1117.
- ^ "No. 22930". The London Gazette (英語). 17 January 1865. p. 216.
- ^ "No. 22449". The London Gazette (英語). 20 November 1860. p. 4304.
- ^ a b c Lodge, Edmund (1907). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語). Vol. 1 (76th ed.). London: Hurst and Blackett. p. 331.
- ^ "No. 25559". The London Gazette (英語). 16 February 1886. p. 744.
- ^ Craig, F. W. S. (1977). British Parliamentary Election Results 1832–1885 (英語). London: Macmillan Press. p. 463. ISBN 978-1-349-02349-3。
- ^ a b c d Townend, Peter, ed. (1963). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語). Vol. 1 (103rd ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 326.
- ^ "Geraldine Georgiana Mary (née Anson), Marchioness of Bristol". National Portrait Gallery (英語). 2022年2月15日閲覧。
- ^ Morris, Susan; Bosberry-Scott, Wendy; Belfield, Gervase, eds. (2019). Debrett's Peerage and Baronetage (英語). London: Debrett's. p. 3435. ISBN 978-1-999767-0-5-1。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Earl Jermyn
- フレデリック・ハーヴィー - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "フレデリック・ハーヴィーの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ハリー・スペンサー・ワディントン フィリップ・ベネット |
庶民院議員(サフォーク西部選挙区選出) 1859年 – 1864年 同職:ウィリアム・ウィンザー・パーカー |
次代 オーガスタス・ハーヴィー卿 ウィリアム・ウィンザー・パーカー |
名誉職 | ||
先代 ストラドブルック伯爵 |
サフォーク統監 1886年 – 1907年 |
次代 サー・ウィリアム・ブランプトン・ガードン |
イギリスの爵位 | ||
先代 フレデリック・ウィリアム・ハーヴィー |
ブリストル侯爵 1864年 – 1907年 |
次代 フレデリック・ウィリアム・フェイン・ハーヴィー |