フルエーラ (カンタブリア公)
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フルエーラ Fruela | |
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カンタブリア公 | |
レコンキスタの戦い(『聖母マリアのカンティガ集』より) | |
死去 |
758年ごろ |
子女 |
アウレリオ ベルムード1世 娘 |
家名 | アストゥリアス家 |
父親 | カンタブリア公ペドロ |
フルエーラ・デ・カンタブリア(スペイン語:Fruela de Cantabria, ? - 758年ごろ)またはフルエーラ・ペレス(Fruela Pérez)は、カンタブリア公ペドロの次男で、アストゥリアス王アルフォンソ1世の弟[1][2]。
生涯
[編集]『アルフォンソ3世の年代記』の『ロダ写本』および『セバスティアン写本』によると、フルエーラはイスラム教徒の侵略に対する襲撃において兄のアルフォンソ1世に従い、ルーゴ、トゥイ、ポルト、ブラガ、ヴィゼウ、シャベシュ、レデスマなどのいくつかの都市を征服することに成功した[3]。
子女
[編集]- アウレリオ(740年頃 - 774年)[1] - アストゥリアス王
- ベルムード1世(750年頃 - 797年)[1] - アストゥリアス王
- 娘 - ロペという名のアラバの貴族と結婚し、息子のガルシアと、アストゥリアス王フルエーラ1世の妃となるムニア・デ・アラバが生まれた[4][注釈 1]。
注釈
[編集]- ^ イブン・ハイヤーンの著書『Al-Muqtabis fi Tarikh al-Andalus』は、イスラム教徒の「ラズィア」について説明し、戦闘で殺された人々について言及している。 この文献によると、816年、「...ハイブ・アブド・アル・カリム・イブン・アブド・アル・カーヒド・イブン・ムグートが、パンプローナの領主であるバラスク・アル・ヤラスク(バスクのベラスコ)という神の敵に対し遠征を行った(...)彼らの多くが亡くなり、この中にはバルムド(アストゥリアス王ベルムード1世)の姉妹の息子であり、イドフンス(アストゥリアス王アルフォンソ2世)の母方の叔父であるガルシヤ・イブン・ルブ(ガルシア・ロペス)が含まれていた。アルフォンソの母親は、他の資料からムニアという名でアラバ出身であることが知られている[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c Martínez Díez 2004, p. 108.
- ^ Besga Marroquí 2000, p. 190.
- ^ Martínez Díez 2004, pp. 82–83.
- ^ Martínez Díez 2004, p. 102.
- ^ Martínez Díez 2004, p. 102–103.
参考文献
[編集]- Besga Marroquín, Armando (2000). Orígenes hispanogodos del Reino de Asturias. Oviedo: Real Instituto de Estudios Asturianos. ISBN 84-8964-541-8
- Martínez Díez, Gonzalo (2004) (Spanish). El Condado de Castilla (711-1038). La historia frente a la leyenda. Valladolid: Junta de Castilla y León. ISBN 84-9718-275-8