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フリードリヒ・ヴィルヘルム・ピクシス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ピクシス
Friedrich Wilhelm Pixis
ヴァイオリンをひくフリードリッヒ・ピクシスとピアノの前の弟ヨハン・ペーター・ピクシス
基本情報
生誕 1785年3月12日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領マンハイム
死没 (1842-10-20) 1842年10月20日(57歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ボヘミアの旗ボヘミア王国プラハ
ジャンル クラシック
職業 ヴァイオリニスト作曲家

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ピクシス(Friedrich Wilhelm Pixis, 1785年3月12日 - 1842年10月20日)は、ドイツヴァイオリニスト作曲家

生涯

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ピクシスはマンハイムに生まれた。父のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ピクシス(1755年-1805年)は同地の教師、オルガニストであった。ピクシスははじめ父から手ほどきを受け、その後ハインリヒ・リッター(Heinrich Ritter)とイグナーツ・フレンツルに師事した。数年の修業期間の後、彼は公開演奏会を行った。弟のヨハン・ペーター・ピクシスピアニストであったため父は1796年に2人を連れて演奏旅行に出かけ、ドイツ、デンマークロシアポーランドを巡った。

1798年の3月から5月には、ピクシス兄弟はハンブルクで演奏会を開いている。この際ピクシスは、3月からハンブルクとシェーネフェルト[注 1]を放浪していたヴァイオリニストのジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの目に留まり、1798年の夏の夏の間を父と共にシェーネフェルトに滞在してヴィオッティのレッスンを無料で受けられることになった[1]。この特訓を終えた同年10月6日には、ピクシス兄弟はハンブルクのフランス劇場で再び演奏会を催している。1804年から1806年の間、ピクシスはマンハイムの管弦楽団でヴァイオリン奏者を務めた。父はウィーンへと居を移した。ピクシス兄弟は1805年の秋にヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに作曲の指導を受けている。1806年から1807年には2人はプラハで演奏会を行い、1807年10月にはライプツィヒゲヴァントハウスの舞台に上っている。

1811年、ピクシスは設立間もないプラハ音楽院のヴァイオリンの教授として迎え入れられた。その後、彼は劇場の管弦楽団及び音楽家協会の運営にも携わっており、プラハの音楽水準の向上に貢献した。彼はプラハ・ヴァイオリン学校の創設者とされている。卒業生には彼の息子のテオドール・ピクシス、モーリッツ・ミルトナー(Moritz Mildner)、ヤン・ヴァーツラフ・カリヴォダカール・フェルディナント・ヒュックスらがいる。ピクシスはボヘミア軍の大佐であったアルベルト・フォン・ノスティッツ=リーネックドイツ語版伯爵のために、定期的な室内楽演奏会を催した。ピクシス自身もヴァイオリニストとして四重奏に参加しており、彼の弦楽四重奏団は同時代の人々から最高の音楽的感興をもたらすものと称賛された。彼は音楽アカデミーを主宰して自作曲を演奏するなどしたが、そうした楽曲はわずかしか現存しない。ヴァイオリンと管弦楽のためのコンチェルティーノ ニ長調、協奏曲、序曲、変奏曲、弦楽四重奏曲 Op.1 ニ長調、ソナタなどがそれにあたる。

脚注

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注釈

  1. ^ 訳注:クライス・ピンネベルク(Kreis Pinneberg)のシェーネフェルト。クライス・シュタインブルク(Kreis Steinburg)にも同名の街がある。

出典

  1. ^ A. Mason Clarke, „Biographical Dictionary of Fiddlers“ 1895

参考文献

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  • Constantin von Wurzbach: Pixis, Friedrich Wilhelm. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. Band 22, Verlag L. C. Zamarski, Wien 1870, S. 378–380.
  • Robert Eitner (1888). "Pixis, Friedrich Wilhelm". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 26. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 219.
  • A. Myslik: Pixis, Friedrich Wilhelm. In: Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950 (ÖBL). Band 8, Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien 1983, ISBN 3-7001-0187-2, S. 110.