フリッツ・シュティードリー
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フリッツ・シュティードリー | |
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基本情報 | |
生誕 | 1883年10月11日 |
出身地 | オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン |
死没 |
1968年8月8日(84歳没) スイス、チューリヒ |
学歴 | ウィーン大学 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
フリッツ・シュティードリー(Fritz Stiedry, 1883年10月11日 ウィーン - 1968年8月8日 チューリヒ)は、オーストリアの指揮者。
経歴
[編集]ウィーン大学で法学を学んでいた頃、グスタフ・マーラーに楽才を見出され、1907年にその助手としてウィーン宮廷歌劇場より任命される。その後いくつか指揮者の助手を経験した後、カッセル歌劇場やベルリン・ドイツ・オペラの首席指揮者に抜擢された。
1933年にヒトラーの権力掌握への反撥からドイツを去り、1934年から1937年までレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。ショスタコーヴィチの『交響曲第4番』の初演を任されリハーサルを行なっていたが、楽団員の抵抗もあり[1]直前になって初演はキャンセルされた。一時期は、ショスタコーヴィチがシュティードリーにはこの曲の複雑さを捌き切れないと感じたからだ、とする説も広まったが[1]、ソ連共産党の公式の圧力によってショスタコーヴィチが初演を撤回させられたとする見解が優勢である[2][3]。
1937年にシュティードリーはレニングラードを経てアメリカ合衆国に向かう。ニューヨーク新楽友オーケストラの指揮者となり、バッハやハイドン、モーツァルトの長く忘れられてきた作品を上演し、またシェーンベルクの『室内交響曲 第2番』を初演した。1945年以降はオペラ界に復帰し、シカゴ・リリック・オペラやメトロポリタン歌劇場で指揮した。手に入るCDではメトロポリタン・オペラとのワーグナーの『ニーベルングの指環』が身近である。
外部リンク
[編集]脚注
[編集]- ^ a b ローレル・E・ファーイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』藤岡啓介、佐々木千恵訳、アルファベータ、2005年(改訂新版)、128頁。ISBN 978-4-87198-534-5。
- ^ Glikman, Isaak, sost, "Pis'ma k drugu: pis'ma D. D. Shostakovicha k I. D. Glikmanu. Moskva, 1993. pp. 12-13.
- ^ “サンフランシスコ交響楽団のプログラム・ノート”. 2008年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年3月5日閲覧。
先代 アレクサンドル・ガウク |
レニングラード・フィルハーモニー交響楽団 音楽監督 1934年 - 1937年 |
次代 エフゲニー・ムラヴィンスキー |