フランシス・チャータリス=ウィームズ=ダグラス (第6代ウィームズ伯爵)
第6代ウィームズ伯爵および第4代マーチ伯爵フランシス・チャータリス=ウィームズ=ダグラス(英語: Francis Charteris-Wemyss-Douglas, 6th Earl of Wemyss and 4th Earl of March FRSE、出生名フランシス・チャータリス(Francis Charteris)、1772年4月15日 – 1853年6月28日)は、スコットランド出身の貴族、軍人。1808年に祖父と父が死去するとウィームズ伯爵を自称し、1826年にエルホー卿デイヴィッド・ウィームズの私権剥奪が解除されるとウィームズ伯爵位を正式に継承した。
生涯
[編集]エルホー卿フランシス・チャータリス(1749年1月31日 – 1808年1月20日、フランシス・チャータリスの息子)とスーザン(Susan、旧姓ケック(Keck)、1746年ごろ – 1835年2月25日、アンソニー・ケックの娘)の息子として、1772年4月15日に生まれた[1]。1780年から1787年までイートン・カレッジで教育を受けた[2]。
1793年、エディンバラ・ハイランド協会に加入した[2]。
1793年6月22日、第4代ゴードン公爵アレクサンダー・ゴードン率いるノーザン・フェンシブルス(Northern Fencibles、フランス革命戦争における本土防衛部隊の1つ)に中尉として入隊した[3]。1795年11月28日、大尉に昇進した[4]。また、1793年から1797年まで母方の親族にあたるアダム・ゴードン卿のエー=ド=カン(副官)を務めた[1]。
1801年1月20日に父が死去すると、エルホー卿の儀礼称号を使用し、同年8月24日に父方の祖父が死去するとウィームズ伯爵の称号を自称した[1]。祖父の兄で6代ウィームズ伯爵となるはずだったエルホー卿デイヴィッド・ウィームズが1745年ジャコバイト蜂起に参加して1746年に私権剥奪されたため、ウィームズ伯爵位は剥奪された扱いになり、正式な継承ができないためだった[1][5]。
1810年12月23日に遠戚にあたる第4代クイーンズベリー公爵ウィリアム・ダグラス[注釈 1]が死去すると、スコットランド貴族のマーチ伯爵位とニードパス城を含むピーブルスシャーにおける広大な領地を継承した[1]。これらの継承に伴い姓をチャータリス=ウィームズ=ダグラス(Charteris-Wemyss-Douglas)に改めた[1]。
1817年1月27日、エディンバラ王立協会フェローに選出された[2]。
1821年1月10日から1853年6月28日までピーブルスシャー統監を務めた[6]。また、1823年7月22日、イースト・ロジアン副統監の1人に任命された[7]。
1821年戴冠式記念叙勲において、7月17日に連合王国貴族であるファイフ州におけるウィームズのウィームズ男爵に叙された[1][8]。その後、1826年5月26日の議会立法によりエルホー卿デイヴィッド・ウィームズの私権剥奪が解除されると、チャータリス=ウィームズ=ダグラスは正式に第6代ウィームズ伯爵となった[1][5]。
1853年6月28日にゴスフォード・ハウスで死去、息子フランシスが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1794年8月31日、エディンバラでマーガレット・キャンベル(Margaret Campbell、1850年1月25日没、ウォルター・キャンベルの娘)と結婚[1]、2男8女をもうけた[5]。
- フランシス(1795年8月14日 – 1883年1月1日) - 第7代ウィームズ伯爵、第5代マーチ伯爵
- イリーナ(Eleanor、1796年7月7日 – 1832年9月16日) - 1820年1月14日、ウォルター・フレデリック・キャンベルと結婚、子供あり[9]
- ウォルター(1797年5月26日 – 1818年8月8日)
- スーザン(1799年3月11日 – ?)
- マーガレット(1800年2月8日 – 1825年10月22日) - 1824年12月、ジョン・ワイルドマン(John Wildman)と結婚
- キャサリン(Katharine、1801年8月20日 – 1844年1月4日) - 1824年12月20日、第8代グロビーのグレイ男爵ジョージ・グレイと結婚、子供あり
- シャーロット(1806年8月20日 – 1886年3月3日) - 1825年9月7日、アンドルー・フレッチャー(Andrew Fletcher、1879年4月9日没)と結婚、子供あり
- ルイーザ・アントイネッタ(Louisa Antoinetta、1845年7月2日没) - 1832年8月14日、ウィリアム・フォーブスと結婚、子供あり
- ハリエット(1858年5月30日没) - 1829年9月3日、第5代準男爵サー・ジョージ・グラント=サッティーと結婚、子供あり
- ジェーン(1897年8月26日没) - 1858年10月30日、フィリップ・ダンダス(Philip Dundas、1870年12月15日没)と結婚
注釈
[編集]- ^ チャータリスの高祖父にあたる第4代ウィームズ伯爵デイヴィッド・ウィームズの妻アンは初代クイーンズベリー公爵ウィリアム・ダグラスの娘であり、4代クイーンズベリー公爵は初代クイーンズベリー公爵の曽孫にあたる[5]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward, ed. (1898). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.) (英語). Vol. 8 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 87–88.
- ^ a b c "Former Fellows of the Royal Society of Edinburgh 1783 – 2002" (PDF). Royal Society of Edinburgh (英語). p. 176. 2020年12月7日閲覧。
- ^ "No. 13539". The London Gazette (英語). 18 June 1793. p. 518.
- ^ "No. 13836". The London Gazette (英語). 24 November 1795. p. 1277.
- ^ a b c d "Wemyss, Earl of (S, 1633)". Cracroft's Peerage (英語). 8 July 2019. 2020年12月6日閲覧。
- ^ Sainty, John Christopher (September 2005). "Lieutenants and Lord-Lieutenants of Counties (Scotland) 1794-". Institute of Historical Research (英語). 2019年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月6日閲覧。
- ^ "No. 17956". The London Gazette (英語). 9 September 1823. p. 1493.
- ^ "No. 17724". The London Gazette (英語). 14 July 1821. p. 1461.
- ^ Fisher, David R. (2009). "CAMPBELL, Walter Frederick (1798-1855), of Islay House, Argyll and Woodhall, Lanark.". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年12月6日閲覧。
関連図書
[編集]- Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 517.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the 8th Earl of Wemyss
名誉職 | ||
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先代 エリバンク卿 |
ピーブルスシャー統監 1821年 – 1853年 |
次代 第7代ウィームズ伯爵 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 フランシス・チャータリス(自称) |
ウィームズ伯爵 1826年 – 1853年 |
次代 フランシス・ チャータリス=ウィームズ=ダグラス |
先代 ウィリアム・ダグラス |
マーチ伯爵 1810年 – 1853年 | |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | ウィームズ男爵 1821年 – 1853年 |
次代 フランシス・ チャータリス=ウィームズ=ダグラス |