フランコ・コスタンソ
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Franco COSTANZO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1980年9月5日(44歳) | |||||
出身地 | リオ・クアルト | |||||
身長 | 188cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1998-2005 | リーベル・プレート | 87 | (0) | |||
2005-2006 | アラベス | 31 | (0) | |||
2006-2011 | バーゼル | 141 | (0) | |||
2012 | オリンピアコス | 6 | (0) | |||
2013-2017 | ウニベルシダ・カトリカ | 44 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1997 | アルゼンチン U-17 | 4 | (0) | |||
1999 | アルゼンチン U-20 | 4 | (0) | |||
2003 | アルゼンチン | 1 | (0) | |||
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フランコ・コスタンソ(Franco Costanzo, 1980年9月5日 - )は、アルゼンチン・コルドバ州リオ・クアルト出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはゴールキーパー。
経歴
[編集]2000年にCAリーベル・プレートとプロ契約を結び、同年にトップチームデビューを果たした。翌2002年に正GKに選ばれたことから、多くの人々から才能のあるGKと見られるようになったが怪我に悩まされ、復帰するとヘルマン・ルクスが背番号1を着けて正GKの地位を確立していた。2005年、スペインのデポルティーボ・アラベスに移籍した。アラベスではすぐに正GKを任されたが、チームが2部に降格するとホセ・マリア・サルメロン監督からトランスファーリストに載せられたことを聞かされた。
2006年7月、ベテランGKパスカル・ツベルビューラーの後釜として[1]移籍金140万ポンドでスイスのFCバーゼルに加入。2006年7月30日、FCザンクト・ガレン戦でデビューするも失態をしたことで2-3で敗れ、良いスタートをきれなかった[2]。しかし、シーズン後半は復調を見せ、チームの最優秀選手に選ばれた。2007年11月8日、UEFAカップのNKディナモ・ザグレブ戦では、スタディオン・マクシミールの敵対的な雰囲気の中で無失点に抑え、アウェーポイントを獲得に貢献[3]。リーグでは優勝をする等、2007-08シーズンは数多くの賞賛を得た。
2008年7月17日、2008-09シーズンが開幕する前日にキャプテンに任命され、2011年までの契約を更新した。2008年7月18日、キャプテンとして初めて臨んだBSCヤングボーイズ戦は、2-1で勝利しマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。
2009年8月9日、1-1と引き分けたFCチューリッヒ戦後にチームメイトのベグ・フェラティと乱闘を起こした。2人はピッチ上で主張し始めると、フェラティはコスタンソを押しのけ、コスタンソはフェラティの髪を引っ張った。状況がエスカレートする前に他の選手たちは2人を引き離したため大事には至らなかった[4]。その後、クラブから罰金とスイスサッカー協会から3試合出場停止の処分が下った[5]。
バーゼルに在籍した5シーズンでリーグ優勝3回, スイス・カップ優勝3回タイトルを獲得。リーグ戦で141試合を含め公式戦で200試合以上に出場した。また、UEFAチャンピオンズリーグでは2008-09, 2010-11と2シーズン本大会に出場。カンプ・ノウでFCバルセロナ相手に1-1で引き分け、スタディオ・オリンピコでASローマ相手に3-1で勝利するなどアウェーでのビッグクラブ相手に活躍した。2011年5月25日、バーゼルで最後となった試合では、コスタンソの後継者に選ばれたヤン・ゾマー[6]と87分に交代でピッチを後にする際にスタンディングオベーションで見送られた。
2011年6月9日、ギリシャ王者のオリンピアコスFCと3年契約を結ぶことが明らかになり、11日に移籍した[7]。引退した名手アントニス・ニコポリディスの後釜と見られていた[7]が、半年後の2012年1月26日に双方合意で契約が解消された[8]。
2012年5月21日、コスタンソは特に理由を告げず現役引退した[9][10]。
2013年6月30日、チリのウニベルシダ・カトリカと1年半の契約を結び現役に復帰した。
代表
[編集]コスタンソは、U-17代表として1997 FIFA U-17世界選手権に全4試合、U-20代表として1999 FIFAワールドユース選手権に全4試合に出場した[11]。2003年のエクアドル代表戦でA代表デビューを果たした[1]。
プライベート
[編集]イタリアの市民権を有する[1]。コスタンソはカルラと結婚し、チロという名の息子が一人と、エマとゾーイの娘が二人いる[12]。3人の子供たち全員がバーゼルで生まれている。
タイトル
[編集]- プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン) : 2001-02C, 2002-03C, 2003-04C
- ギリシャ・スーパーリーグ : 2011-12
- ギリシャ・カップ 2011-12
- プリメーラ・ディビシオン (チリ) : 2015-16C, 2016-2017A
- スーペルコパ・デ・チレ : 2016
脚注
[編集]- ^ a b c "FCB hat bereits einen Zubi-Ersatz!"
- ^ "Portrait Franco Costanzo"
- ^ "Match Report NK Dinamo Zagreb - FC Basel 1893"
- ^ When teammates fight: "Franco Costanzo vs Beg Ferati (FC Basel)"
- ^ "Costanzo gets three-match ban for hair-pulling"
- ^ "FCB trennt sich von Costanzo"
- ^ a b "Costanzo completes Olympiacos switch"
- ^ "Olympiacos announces termination of contract with Franco Costanzo2"
- ^ "Un retiro prematuro"
- ^ "Franco Costanzo tritt zurück"
- ^ "Franco COSTANZO"
- ^ "FCB-Costanzo zum dritten Mal Vater geworden"
外部リンク
[編集]- フランコ・コスタンソ – FIFA主催大会成績
- Futbol XXI
- フランコ・コスタンソ - National-Football-Teams.com
- transfermarkt