フセヴォロド・ダヴィドヴィチ (ムーロム公)
表示
フセヴォロド・ダヴィドヴィチ Всеволод Давыдович | |
---|---|
ムーロム公 | |
在位 | 1123年 - 1127年 |
家名 | リューリク家 |
父親 | チェルニゴフ公ダヴィド |
母親 | フェオドシヤ |
フセヴォロド・ダヴィドヴィチ(ロシア語: Всеволод Давыдович、生没年不詳)は、チェルニゴフ公ダヴィドの子である。ムーロム公:1123年 - 1127年もしくはそれ以降。
生涯
[編集]1116年、ペレヤスラヴリ公ヤロポルクと共にポロヴェツ族への遠征に参加し、スグロフ、シャルカニ、バリンの三都市を占領した[1]。
1123年に父ダヴィドが死ぬと、チェルニゴフ公国は父の弟ヤロスラフに移管され[2]、ヤロスラフの統治していたムーロム公国が、当時の継承法(ru)(年長順番制[3])に従って、残る一族の中の最年長者であったフセヴォロドに継承された。その後ヤロスラフは、1127年にオレグ家(ru)のフセヴォロド(本項のフセヴォロドの従兄弟)にチェルニゴフを追われ、ムーロムへ戻っているが、本項のフセヴォロドに関する記述はない。
フセヴォロドの妻子についても不明であるが、フセヴォロドの妻を、ポーランド公ボレスワフ3世の娘とする説がある[4]。また、帝政ロシアの歴史学者ヴァシリー・タティーシチェフ(ru)は、フセヴォロドをグロドノ公国の初代グロドノ公フセヴォロドコと同一とみなす説を提唱していたが、タティーシチェフ自身、また後世の歴史学者によってもこの説は否定されている。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 中澤敦夫「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(1) : 『原初年代記』への追加記事(1110~1117年)」『富山大学人文学部紀要』第61巻、富山大学人文学部、2014年8月、233-268頁、CRID 1390853649736563968、doi:10.15099/00000292、hdl:10110/12937、ISSN 03865975。
- 中澤敦夫, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(2) : 『キエフ年代記集成』(1118~1146年)」『富山大学人文学部紀要』第62巻、富山大学人文学部、2015年2月、287-353頁、CRID 1390290699783145728、doi:10.15099/00000305、hdl:10110/13459、ISSN 03865975。
- 岩間徹『ロシア史』(新版)山川出版社〈世界各国史〉、1979年。ISBN 4634410400。
|