フォルトゥン・ガルセス
フォルトゥン・ガルセス Fortún Garcés | |
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ナバラ国王 | |
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在位 | 870/82年 - 905年 |
出生 |
9世紀 |
死去 |
922年 パンプローナ王国、レイレ修道院 |
埋葬 | パンプローナ王国、レイレ修道院 |
配偶者 | アウリア |
子女 |
イニゴ・フォルトゥネス アスナール・フォルトゥネス ベラスコ・フォルトゥネス ロペ・フォルトゥネス オネカ・フォルトゥネス |
家名 | イニゴ家 |
王朝 | イニゴ朝 |
父親 | ガルシア・イニゲス |
母親 | ウラカ |
フォルトゥン・ガルセス(スペイン語:Fortún Garcés, バスク語:Orti Gartzez, ? - 922年)は、ナバラ国王(パンプローナ国王)(在位:870/82年 - 905年)。独眼王(el Tuerto)、のち修道士王(el Monje)と呼ばれた。アラブの記録に「فرتون بن غرسية」(Fortoûn ibn Garsiya)として記されている。パンプローナ王ガルシア・イニゲスの長男で、初代パンプローナ王イニゴ・アリスタの孫。約30年間王位についていたが、イニゴ家最後のパンプローナ王となった。
生涯
[編集]フォルトゥン・ガルセスはパンプローナ王ガルシア・イニゲスの長男として生まれたが、生年は不明である[1]。母ウラカはバヌ・カシ家の家長ムサ・イブン・ムサ・アル・カサウィの孫娘であったとも考えられている[2]。若年期のフォルトゥン・ガルセスについてはほとんど知られていない。
父王ガルシア・イニゲスはアストゥリアス王国とより緊密な関係を結ぼうとし、自身とパンプローナ王国はエブロ川近くの領地を支配していたバヌ・カシ家から距離を置いた。ガルシア・イニゲスはイスラム勢力であるバヌ・カシ家やコルドバのアミール・ムハンマド1世との度重なる武力衝突に巻き込まれた[3]。ムハンマド1世は860年にパンプローナを侵略し、ミラグロにおいてフォルトゥン・ガルセスを娘のオネカとともに捕らえ、人質としてコルドバに連行した[4][1]。サラゴサのワーリーであったムハンマド・イブン・ルブはアイバルの城を包囲し、最終的に破壊し、これによりガルシア・イニゲスが死去した。父ガルシア・イニゲスの死後、フォルトゥン・ガルセスはパンプローナに戻ることを許され、パンプローナ王位についた[5]。フォルトゥン・ガルセスはバヌ・カシ家の意向に沿った政策を行い、パンプローナ貴族の怒りを引き起こした。フォルトゥン・ガルセスはしばしばレイレ修道院に隠棲することとなった。
905年、パンプローナ貴族はフォルトゥン・ガルセスに代わりにサンチョ・ガルセスを王として選び、劇的な変化が起こった[6]。この決定の背後には、サンチョ・ガルセスが非常に評判が高く軍事的に名声を得ており、パリャルス伯・リバゴルサ伯レイモンド1世、アラゴン伯ガリンド2世・アスナーレス、アストゥリアス王アルフォンソ3世などの重要な人物の支持を得ていたという事実があった[6]。
フォルトゥン・ガルセスは905年にレイレ修道院に引退し[6]、そこで922年に死去した[7]。
結婚と子女
[編集]フォルトゥン・ガルセスはアウリアという女性と結婚したが、アウリアの出自については資料がなく、様々な推測がなされている[8][9]。『ロダ写本』によると、2人の間に以下の子女が生まれた[10]。
- イニゴ・フォルトゥネス - ヒメノ家のガルシア・ヒメネスとオネカ・レベレ・デ・サングエサの娘サンチャ・ガルセスと結婚した。サンチャ・ガルセスは後にアラゴン伯ガリンド2世・アスナーレスと再婚した。
- アスナール・フォルトゥネス
- ベラスコ・フォルトゥネス - 娘ヒメナはガルシア・ヒメネスの息子イニゴ・ガルセスと結婚した
- ロペ・フォルトゥネス
- オネカ・フォルトゥネス - 『ロダ写本』によると、最初にコルドバの7代アミール・アブドゥッラー・イブン・ムハンマドと結婚し[11]、のちにララウン領主アスナール・サンチェスと再婚してトダ・アスナーレスおよびサンチャ・アスナーレスを含む3子を産んだという[1]。しかし、アブドゥッラーと結婚したオネカをフォルトゥン・ガルセスの娘とした場合、この結婚の順番には問題がある[12]。
脚注
[編集]- ^ a b c Martínez Díez 2007, p. 25.
- ^ Salazar y Acha 2006, pp. 33–34.
- ^ Martínez Díez 2007, p. 23.
- ^ Collins 2012, p. 45.
- ^ Menéndez Pidal 1999, p. 104.
- ^ a b c Martínez Díez 2007, p. 26.
- ^ Salazar y Acha 2006, p. 33.
- ^ Settipani 2004, p. 116.
- ^ Rei 2011–2012, pp. 44–45.
- ^ Cañada Juste 2013, p. 482.
- ^ Kosto 2017, p. 79.
- ^ Cañada Juste 2013.
参考文献
[編集]- Cañada Juste, Alberto (2013). “Doña Onneca, una princesa vascona en la corte de los emires cordobeses” (スペイン語). Príncipe de Viana (Gobierno de Navarra) (258 (Separata)): 481–501. ISSN 0032-8472 .
- Collins, Roger (2012). Caliphs and Kings: Spain, 796-1031. Blackwell publishing
- Kosto, Adam J. (2017). “Aragon and the Catalan Counties Before the Union”. In Sabaté, Flocel. The Crown of Aragon: A Singular Mediterranean Empire. Brill. pp. 70–91
- Martínez Díez, Gonzalo (2007) (スペイン語). Sancho III el Mayor Rey de Pamplona, Rex Ibericus. Madrid: Marcial Pons Historia. ISBN 978-84-96467-47-7
- Rei, António (2011–2012). “Descendência Hispânica do Profeta do Islão: Exploração de Algumas Linhas Primárias” (ポルトガル語). Armas e Troféus. Instituto Português de Heráldica
- Salazar y Acha, Jaime de (2006). “Urraca. Un nombre egregio en la onomástica altomedieval” (スペイン語). En la España medieval (1): 29–48. ISSN 0214-3038 .
- Settipani, Christian (2004) (フランス語). La noblesse du midi carolingien: études sur quelques grandes familles d'Aquitaine et du Languedoc du IXe siècle. Oxford Univ. Unit for Prosopographical Research. ISBN 9781900934046
- Menéndez Pidal, Ramón (1999) (スペイン語). Historia de España, Tomo VII, Vol. 2, La España Cristiana de los Siglos VIII al IX (718 - 1035). Los Núcleos Pireneicos, Navarra, Aragón, Cataluña. Madrid: Editorial Espasa-Calpe SA. ISBN 84-239-8913-5