フェルナンド・マリア・ルイス・デ・ブラガンサ
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フェルナンド・マリア・ルイス Fernando Maria Luís | |
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ブラガンサ=コブルゴ家 | |
ポルトガル王子フェルナンド、1856年撮影 | |
出生 |
1846年7月23日 ポルトガル王国、リスボン |
死去 |
1861年11月6日(15歳没) ポルトガル王国、リスボン |
埋葬 | ポルトガル王国、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院内ブラガンサ王室霊廟 |
父親 | フェルナンド2世 |
母親 | マリア2世 |
フェルナンド・マリア・ルイス・デ・サクセ=コブルゴ=ゴタ・イ・ブラガンサ(Fernando Maria Luís de Saxe-Coburgo-Gota e Bragança, 1846年7月23日 - 1861年11月6日)は、ポルトガルの王族。ブラガンサ家(ブラガンサ=コブルゴ家)の成員[注釈 1]。
生涯
[編集]女王マリア2世とその王配フェルナンド2世の間の第四王子として生まれた。正式な洗礼名はフェルナンド・マリア・ルイス・ミゲル・ハファエル・ガブリエル・ゴンザーガ・フランシスコ・デ・アシス・アントニオ・アポリナリオ(Fernando Maria Luís Miguel Rafael Gabriel Gonzaga Francisco de Assis António Apollinário)。
幼くしてカサドレス(軽騎兵)第5大隊所属の少尉に任官し、またヴィラ・ヴィソザ無原罪の御宿リ騎士団勲章を拝受した。
1861年初冬、長兄ペドロ5世王、三兄ベージャ公ジョアン王子とともに、コレラ(或いは腸チフス)に感染して死去した。15歳だった。遺体はサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院内ブラガンサ王室霊廟に安置された。
脚注
[編集]- ^ 1944年版『ゴータ年鑑』ではザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ公家の男系男子として記載されている。しかし、1838年ポルトガル憲法(1838 Portuguese constitution)第1章第1条第5項では「最も静穏なるブラガンサ家こそがポルトガルの統治者家門であり、同家は女王マリア2世陛下の人格[法人格・自然人格]を通じて継続される」と定められていた。そのため、マリア2世とフェルナンド2世の子孫は、公式にはブラガンサ家に属する形となった。
参考文献
[編集]- Redacção Quidnovi, com coordenação de José Hermano Saraiva, História de Portugal, Dicionário de Personalidades, Volume XIV, Ed. QN-Edição e Conteúdos, S.A., 2004.
- Tavares Dias, Marina, D. Carlos, Lisboa 1908, Quimera Editores, Lda., 2007. ISBN 978-972-589-176-6
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、フェルナンド・マリア・ルイス・デ・ブラガンサに関するカテゴリがあります。