フェルディナンド・パエール
フェルディナンド・パエール Ferdinando Paer | |
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1825年以前 | |
基本情報 | |
生誕 |
1771年6月1日 パルマ公国、パルマ |
死没 |
1839年5月3日(67歳没) フランス王国、パリ |
職業 | 作曲家 |
フェルディナンド・パエールまたはパエル(伊: Ferdinando Paer, 1771年6月1日 - 1839年5月3日)はイタリアの作曲家。パルマ出身。専門的にはパーエルと綴られる。フランツ・リストの師として知られる。
ヴァイオリン奏者のギレッティに楽理を師事。最初のオペラ《 La Locanda de vagebon-di》は、パエールがまだ16歳の時に出版され、その他のオペラもそれに続き、たちまちイタリア全土にその名が轟いた。1797年にウィーンに赴く。同地では、パエールの夫人で声楽家のリッカルディが、オペラ歌手として契約中であった。同地でパエールは一連の自作のオペラを上演し、その中に《 La Camila ossia il Sotteraneo》(1799年)と《 A chille》(1801年)が含まれていた。1803年にドレスデン宮廷劇場の専属作曲家に任命され、パエール夫人も歌手として雇われた。1804年には選帝侯より終身宮廷楽長の称号を贈られる。
1804年に、ベートーヴェンの《フィデリオ》と同じ筋書きによって《レオノーラ Leonora》を作曲。1807年には、ドレスデン滞在中のナポレオン・ボナパルトの寵愛を得て、ワルシャワやパリに随行し、2万8千フランの俸給を与えられる。1812年にスポンティーニの後任として、パリのイタリア劇場の指揮者に就任。この地位は王政復古後にも維持され、オルレアン公の私設オーケストラの指揮者や、ルイ18世の宮廷作曲家の地位も得た。1823年に、ロッシーニ人気のためにイタリア劇場から引退。同年にはパリを訪れたフランツ・リストを指導している。1831年にフランス学士院の会員に選ばれ、1831年にはルイ・フィリップの宮廷楽団の指揮者に任命された。
パエールは、パイジェッロやチマローザの作曲様式によって、全部で43曲のオペラを作曲している。オペラ以外に、9つの宗教音楽や13のカンタータ、若干の器楽曲(管弦楽曲や室内楽曲)があるが、さして重要ではない。いずれにせよ、パエール作品は浅薄な特徴ゆえに、存命中の人気にとどまり、死後の忘却を押しとどめるには至らなかった。
主要作品
[編集]歌劇
[編集]- カミッラ, または地下の洞窟
- レオノーラ,または夫婦の愛
- 捨てられたディドーネ
- 宮廷楽長, または不意の夜食
協奏曲
[編集]- オルガン協奏曲 ニ長調
吹奏楽曲
[編集]- ナポレオンとマリー・ルイーズの結婚のための大行進曲
参考文献
[編集]- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Paër, Ferdinando". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 447-448.