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フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン
Ferdinand von Waldstein
生誕 1762年3月24日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーン
死没 (1823-05-26) 1823年5月26日(61歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
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ヴァルトシュタインがベートーヴェンのサイン帳に記したメッセージ。

フェルディナント・エルンスト・ヨーゼフ・ガブリエル・フォン・ヴァルトシュタイン・ウント・ヴァルテンベルク伯爵(Graf Ferdinand Ernst Joseph Gabriel von Waldstein und Wartenberg、1762年3月24日 - 1823年5月26日)は、ドイツ系ボヘミアの貴族出身、芸術家のパトロンヴァルトシュタイン家の生まれで早くからベートーヴェンパトロンだった他、ボン宮中顧問官を務め、英国陸軍中尉、ドイツ騎士団司令官などの政治的、軍事的な役職に就いた。

生涯

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ヴァルトシュタインはウィーンに生まれた。1787年にドイツ騎士団に加わった彼はエリンゲンでノービスに、1788年6月17日に騎士団総長のマクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒによってナイトに叙せられた[1]

1788年はじめからボンに居を構えたヴァルトシュタインは、ケルン選帝侯の宮殿への出入りを許可された。翌年には枢密顧問官、及びボンの州議会の議員となる。2年後、ゴーデスベルクに騎士領を得て、これにより領主としてケルンの議会に議席を持つことになった。1788年から1792年にかけては各種の外交的職務に送られた。1792年にはフィルンスベルクドイツ語版Deutschordensballei Frankenで司令官となる。1794年には選帝侯のフランスへの作戦に同行した。

ボンにおいて若きベートーヴェンの才能を見出したヴァルトシュタインは、早くから彼のパトロンの1人となった。1791年に開かれた騎士団の会合では、ベートーヴェンが彼のために作曲した『騎士のバレエ』WoO.1を、ヴァルトシュタイン作として発表している[2]。1792年、ベートーヴェンをハイドンに推薦したのはヴァルトシュタインであった[3]。また、ベートーヴェンは1804年に、ピアノソナタ第21番 ハ長調 作品53をヴァルトシュタインに献呈している[4][5][注釈 1]

ナポレオン軍を討伐するという思いにとわられたヴァルトシュタインは、軍隊を養成しようとして全財産を浪費してしまう[6]1795年6月3日にはイングランドとの間で「メルゲントハイム連隊 (Regiments Mergentheim)」を創立するという契約に調印し、1796年からはロンドンで暮らした。1797年7月23日、選帝侯は次のように書いている。「1年以上にわたり修道会も債権者もフェルディナント・フォン・ヴァルトシュタインから何ら知らせを受け取っておらず、彼には多くの金と賢明さを望みたい[7]。」ヴァルトシュタインが時折、自らの連隊とともに西インドにいたとする証拠が残されている。1807年、彼は英国軍を去る。

1809年以降、ヴァルトシュタインはウィーンまたは自らのボヘミアの所有地で暮らし、1811年に騎士団から身を引いた。1812年5月9日、イザベラ・ジェヴスカ(Isabella Rzewuska)女伯爵と結婚している。財務処理を仕損じたことで貧困に陥り、1823年にウィーンで生涯を閉じた。

発言

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1792年11月に、ベートーヴェンにウィーンへの旅立ちに際して、彼が贈った言葉は広く知られている。

「親愛なるベートーヴェンへ! 長きにわたって叶わなかった望みを実現するために、君はヴィーンへ旅立とうとしている。モーツァルトの守護神はいまだにその護り子の死を悼み、涙している。汲めども尽くせぬハイドンのもとに、守護神は避難所を見いだしたが、そこは働きの場とはならなかった。彼を通して、更に別の人間と結び合いたいと望んでいるのだ。たゆまぬ鍛錬によって受けたまえ、モーツァルトの精神をハイドンの手から[8]

音楽学者ルイス・ロックウッドは、「この記念帳への書き込みは言葉遣いや比喩的表現の点で際立っており、この修辞的な言葉は厳粛で思慮深く、単に一人の芸術家である友人の旅立ちとしてだけでなく、音楽史上の出来事としても表現している」と述べている[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ ロックウッドは、「この作品を献呈したのは1804年時点で恩義があったというより、初期の支援に対する感謝の気持ちを反映しているのだろう」と述べている[5]

出典

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  1. ^ ロックウッド 2010, pp. 60.
  2. ^ ロックウッド 2010, pp. 60–61.
  3. ^ Count Waldstein (1762 - 1823) and Beethoven's Waldstein Sonata opus 53”. CLASSIC fM. 2015年6月21日閲覧。
  4. ^ Mintz, 188.
  5. ^ a b ロックウッド 2010, pp. 61.
  6. ^ Suchet, "Beethoven's patrons - Count Waldstein."
  7. ^ Max Braubach (Hg.): Die Stammbücher Beethovens und der Babette Koch, S. 159
  8. ^ ロックウッド 2010, pp. 67.
  9. ^ ロックウッド 2010, pp. 68.

参考文献

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  • ルイス・ロックウッド『ベートーヴェン 音楽と生涯』土本英三郎・藤本一子[監訳]、沼口隆・堀朋平[訳]、春秋社、2010年11月30日。ISBN 978-4-393-93170-7 
  • Früh, Martin (2023): "Der vorletzte Ritter. Graf Ferdinand von Waldstein und seine Aufnahme in die Landstände des Erzstiftes Köln. Eine Nachlese zum Beethoven-Jahr 2020", Annalen des Historischen Vereins für den Niederrhein 226: 177-218