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フェリックス・ツー・シュヴァルツェンベルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェリックス・ツー・シュヴァルツェンベルク
Felix zu Schwarzenberg
シュヴァルツェンベルク侯爵家

称号 侯爵(Fürst)
出生 (1800-10-02) 1800年10月2日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国チェスキー・クルムロフ
死去 (1852-04-05) 1852年4月5日(51歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
父親 ヨーゼフ2世・ツー・シュヴァルツェンベルクドイツ語版
役職 オーストリア帝国首相
サイン
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フェリックス・ツー・シュヴァルツェンベルクドイツ語: Felix zu Schwarzenberg1800年10月2日 - 1852年4月5日)は、オーストリア貴族。軍事と外交の両分野で活躍した。

生涯

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皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に新閣僚を紹介するシュヴァルツェンベルク

1848年革命によって宮廷がインスブルックに逃れた際、オーストリア皇帝フェルディナント1世の補佐機関である「宰相会議」は瓦解し、帝国の実権は諸将に移った。北イタリアの反乱を鎮圧したヨーゼフ・ラデツキーは82歳と老齢で政治的野心もなかったことから[1]プラハウィーンの暴動を鎮圧したアルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツが強大な存在感を持つこととなった[1]

ヴィンディシュ=グレーツの妻はフェリックスの姉エレオノーレであり、ヴィンディシュ=グレーツの強力な後押しによって[2]1848年11月21日、オーストリアの首相兼外相に任命された。

1848年12月2日、フェルディナント1世は退位し、シュヴァルツェンベルクは新皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を補佐することとなった。

私は陛下にはすべてをお伝えしたうえで、御自分で判断なさるには明らかに資料不足であるというような場合に限って、助言申し上げるつもりである[3] — 義兄アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ宛の書簡

1852年4月5日、宮廷舞踏会に出席するために騎兵隊の制服を着ている中、心臓発作で急死した[4]。フランツ・ヨーゼフ1世はシュヴァルツェンベルクの横死を悼み、母のゾフィー大公妃に送った書簡で「私はこの偉人と共に墓に沈めることができない秩序の原則を守らなければなりません」と書いた。シュヴァルツェンベルクに匹敵するほどの人物が見当たらず、関係者は後任探しに頭を悩ませた[4]。このため当分オーストリア首相は空席となり、フランツ・ヨーゼフ1世自らがその役割を果たすこととなった[4]

脚注

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  1. ^ a b 菊池 1991, p.118
  2. ^ 菊池 1991, p.120
  3. ^ 江村(2013) p.45
  4. ^ a b c 江村(2013) p.53-54

参考文献

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  • 菊池良生悲劇の皇帝マクシミリアンⅠ世(Ⅱ)」『明治大学教養論集』第235巻、明治大学教養論集刊行会、1991年、101-125頁、ISSN 03896005NAID 120001441113 
  • 江村洋『フランツ・ヨーゼフ : ハプスブルク「最後」の皇帝』河出書房新社〈河出文庫 [え6-3]〉、2013年。ISBN 9784309412665NCID BB14377143全国書誌番号:22342465https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025031246-00 

関連項目

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先代
ヨハン・フォン・ヴィッセンベルク
オーストリア首相
1848年 - 1852年
次代
カール・ブオル=シャウエンシュタイン