コンテンツにスキップ

ピーター・ハウストラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピーター・ハウストラ
2021年のピーター・ハウストラ
名前
ラテン文字 Pieter HUISTRA
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 (1967-01-18) 1967年1月18日(57歳)
出身地 ホーエンハオランダ語版
身長 182cm
体重 71kg
選手情報
ポジション FW (LWG)
利き足 左足
ユース
オランダの旗 ドラフツテル・ボーイズオランダ語版
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1984-1986 オランダの旗 フローニンゲン 19 (1)
1986-1987 オランダの旗 フェーンダム 33 (5)
1987-1990 オランダの旗 トゥウェンテ 93 (17)
1990-1995 スコットランドの旗 グラスゴー・レンジャーズ 125 (22)
1995-1996 日本の旗 サンフレッチェ広島 63 (13)
1996-1997 オランダの旗 フローニンゲン 9 (2)
1997-2000 ベルギーの旗 リールセ 54 (11)
2000-2001 オランダの旗 ローゼンダール 0 (0)
通算 396 (71)
代表歴2
1988-1991 オランダの旗 オランダ 8 (0)
監督歴
2001-2005 オランダの旗 ヨング・フローニンゲン
2005-2008 オランダの旗 フィテッセ (アシスタントコーチ)
2009-2010 オランダの旗 アヤックス (アシスタントコーチ)
2010-2012 オランダの旗 フローニンゲン
2012-2013 オランダの旗 デ・フラーフスハップ
2015 インドネシアの旗 インドネシア (暫定)
2016 日本の旗 いわきFC
2017-2020 ウズベキスタンの旗 パフタコール (アシスタントコーチ)
2021-2022 ウズベキスタンの旗 パフタコール
2023- インドネシアの旗 ボルネオFCサマリンダ
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月13日現在。
2. 2007年10月13日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ピーター・エッヘ・ハウストラオランダ語: Pieter Egge Huistra, 1967年1月18日 - )は、オランダ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。ポジションはフォワードミッドフィールダー

オランダ語の"ui"の二重母音は一般的に"アイ"の発音が近いと考えられているが、Huistraの場合は定着したハウストラ表記が多い。

来歴

[編集]

現役時代

[編集]

オランダ・フリースラント州のアマチュアクラブ、ドラフツテル・ボーイズ英語版出身。

エールディヴィジ (1部)・FCフローニンゲンとプロ契約し、1984年9月5日対フェーンダム戦にでリーグ戦デビューする。その後1シーズンのみBVフェーンダムに在籍し1987年にFCトゥウェンテへ移籍した。ここで左ウィングとして才能を開花させ、1988年にはオランダ最優秀若手賞に輝き、オランダ代表にも選ばれた。1988年11月16日対イタリア代表戦で代表デビュー。1990 FIFAワールドカップを戦うメンバーへの召集は有力であったものの、怪我でメンバー入りを逃した[1]

同1990年、スコットランド・フットボールリーグレンジャーズFCへ移籍、ウォルター・スミス監督の下、在籍した5シーズンすべてでリーグ戦優勝に貢献し9連覇の一端を担った。この間の1992-93シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグに出場、6試合で2アシストを記録した[2]

1995年からはオランダ人のビム・ヤンセン監督率いるサンフレッチェ広島に2シーズン在籍、3トップの左ウイングや左サイドハーフとしてプレー、ドリブルからの正確無比なピンポイントクロスで多くのチャンスを演出[3]、チャンスメーカーとして活躍を見せて多くのアシストを決めるだけでなく[4](1996年のリーグ戦では、ゴール数は7であったが、二桁のアシストを記録した。)、献身的なプレーでもチームに貢献していた[5]。また、甘いマスクで女性人気も集めた[4]

1995年のJリーグ開幕戦となったセレッソ大阪戦でデビュー、クロスで再三チャンスを演出するも0-1で敗れた[6]。続く第2節、3月22日の清水エスパルス戦でJリーグ初ゴール[7]。同年の第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、準決勝のガンバ大阪戦で決勝点を決めてチームを決勝に導いたが[8]、元旦の決勝では名古屋グランパスエイトに敗れて準優勝に終わった。Jリーグでは通算63試合13ゴール、リーグカップでは14試合5ゴールの成績を残した[7]。1996年シーズン終了後、ビム・ヤンセン監督退任に伴ってサンフレッチェを退団した。

1997年春に古巣のフローニンゲンに戻り、同年夏にベルギー1部リールセSKへ移籍し3シーズンプレー、1997-98シーズンはUEFAチャンピオンズリーグに出場[4]、予備予選2試合とグループステージの5試合に出場し、スポルティングCP戦では得点も決めた[9]。最終年の1999-2000シーズン中にアキレス腱に大怪我を負った。翌2000年にオランダへ戻りRBCローゼンダールへ移籍するものの怪我が原因で引退した。

指導者

[編集]

引退後はフローニンゲンでユースコーチ、2005年から2008年までフィテッセでアシスタントコーチを歴任した。

2009年4月アヤックスコーチであるロブ・ウィツヘの怪我に伴い暫定でアヤックスのアシスタントコーチに就任[10]、シーズン終了後もそのままアヤックスに留まり、アドリー・コスターの後任として下部組織であるアヤックス・アカデミー監督に就任した[11]

2009年、FCフローニンゲン監督のロン・ヤンスが勇退すると発表、後任として2010年6月監督に就任した[12]。ただ翌2011-12シーズン低迷したことから2012年5月に解任される[13]

2012年からエールステ・ディヴィジデ・フラーフスハップ監督を務める[14]。同シーズン8位に終わり昇格ならず、翌シーズンも監督を務めたがチームが機能していないとGMに判断され2013年12月解任された[15]

2014年12月、サッカーインドネシア代表のテクニカルディレクターに就任した[16]

2016年1月、福島県社会人サッカーリーグ2部のいわきFC監督に就任。「いつか指導者として日本に戻ってきたいと思っていた。自分の経験を生かしたい」と抱負を語った他、東日本大震災被災地からのJリーグ加盟を目指すクラブからのオファーに「興奮した。津波で大きな被害を受けたいわきでこのプロジェクトをやることは、とても特別なことだと感じた」と語った[17][18]。指揮した10を全勝してチームを1部昇格に導くも、チームとの方向性の違いから僅か1年で退任した[1]

2017年3月30日、スロバキアASトレンチーンのテクニカルアドバイザーに就任[19]。しかし、同年6月25日にはウズベキスタンに渡りFCパフタコール・タシュケントショタ・アルベラーゼ監督のアシスタントコーチを務めることになった[20]。2020年末、アルベラーゼの退任に伴い監督に就任。2022年1月10日、契約満了でパフタコールを退団[21]

2023年2月21日、インドネシア・リーガ1ボルネオFCサマリンダ英語版監督に就任[22][23]

その他

[編集]

サンフレッチェ広島時代の日本での2年間の生活を振り返り、「広島はよく整備された素晴らしい街で、誰もが親しく接してくれた。」と広島への愛着を語っていた[4]

個人成績

[編集]
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
オランダ リーグ戦 リーグ杯KNVBカップ 期間通算
1984-85 フローニンゲン エールディヴィジ 10 1
1985-86 7 0
1986-87 フェーンダム 33 5
1987-88 トゥウェンテ 34 8
1988-89 34 6
1989-90 25 3
スコットランド リーグ戦 S・リーグ杯スコティッシュ杯 期間通算
1990-91 レンジャーズ FL 27 4
1991-92 32 5
1992-93 30 4
1993-94 21 6
1994-95 15 3
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995 広島 - J 35 6 - 5 2 40 8
1996 28 7 14 5 0 0 42 12
オランダ リーグ戦 リーグ杯KNVBカップ 期間通算
1996-97 フローニンゲン エールディヴィジ 9 2
ベルギー リーグ戦 リーグ杯ベルギー杯 期間通算
1997-98 リールセ 1部 32 11
1998-99 22 0
1999-00 0 0
オランダ リーグ戦 リーグ杯KNVBカップ 期間通算
2000-01 ローゼンダール エールディヴィジ 0 0
通算 オランダ エールディヴィジ 152 25
スコットランド FL 125 22
日本 J 63 13 14 5 5 2 82 20
ベルギー 1部 54 11
総通算 394 61

代表成績

[編集]


オランダ代表国際Aマッチ
出場得点
1988 1 0
1989 4 0
1990 0 0
1991 3 0
通算 8 0

タイトル

[編集]

選手時代

[編集]
リールセSK

指導者時代

[編集]
いわきFC

脚注

[編集]
  1. ^ a b ファン・ペルシー大歓迎!「Jリーグでプレーしたオランダ代表」”. QOLY (2017年2月5日). 2024年11月13日閲覧。
  2. ^ Pieter Huistra 1992-93”. Transfermarkt. 2024年12月7日閲覧。
  3. ^ Jカーズ 1996 No,214
  4. ^ a b c d ワールドサッカーグラフィック 1998年5月号 141ページ 第10回 菊とフットボーラー 外国人から見たJリーグ
  5. ^ 10番・久保竜彦の物語「君は久保を見たか」Part.3”. SIGMA CLUB WEB (2017年4月24日). 2024年11月11日閲覧。
  6. ^ J3年目、黒星スタート【1995年3月18日 Jリーグサントリーシリーズ第1節 広島 0-1 C大阪】”. 中国新聞 (2023年8月1日). 2024年12月5日閲覧。
  7. ^ a b “ハウストラ”. /data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=1843 17 April 2020閲覧。 
  8. ^ 週刊サッカーマガジン 1996年1月10日-1月17日号 NO.538 p.11
  9. ^ Pieter Huistra 1997-98”. Transfermarkt. 2024年12月7日閲覧。
  10. ^ Huistra neemt taken Witschge tijdelijk over”. アヤックスサポーター協会 (2009年4月3日). 2013年5月26日閲覧。
  11. ^ Pieter Huistra bijna rond met Ajax”. AD.nl (2009年4月24日). 2013年5月26日閲覧。
  12. ^ Huistra: ‘Op een winterdag samengebracht’”. FCフローニンゲン (2009年12月22日). 2013年5月26日閲覧。
  13. ^ Groningen fire head coach Pieter Huistra”. GOAL.com (2012年5月10日). 2013年5月26日閲覧。
  14. ^ Huistra nieuwe coach van gedegradeerd De Graafschap”. veotbal INTERNATIONAL (2012年5月20日). 2013年5月26日閲覧。
  15. ^ De Graafschap ontslaat trainer Huistra”. ad.nl (2013年12月24日). 2013年12月25日閲覧。
  16. ^ Pieter Huistra heeft nieuwe baan”. rtvnoord (2014年12月3日). 2014年12月8日閲覧。
  17. ^ いわきFC監督に元広島ハウストラ氏「いつか戻ってきたいと」 スポーツニッポン、2016年1月14日閲覧
  18. ^ 福島県2部からJ入り目指すいわきFC…オランダ人指揮官「話を聞いて興奮した」 ゲキサカ、2016年1月14日閲覧
  19. ^ Holanďan Pieter Huistra bude novým poradcom AS Trenčín” (スロバキア語). MY Trenčín (2017年3月30日). 2023年7月16日閲覧。
  20. ^ Roberto Cancian (2017年6月25日). “Pieter Huistra aan de slag in Oezbekistan” (オランダ語). De Gelderlander. 2023年7月16日閲覧。
  21. ^ "ПИТЕР ХЮИСТРА БИЛАН ҲАМКОРЛИК ДАВОМ ЭТТИРИЛМАЙДИ" (Press release) (ウズベク語). FCパフタコール・タシュケント. 10 January 2022. 2023年7月16日閲覧
  22. ^ "Pieter Huistra Ditunjuk Sebagai Pelatih Borneo FC" (Press release) (インドネシア語). ボルネオFCサマリンダ. 21 February 2023. 2023年7月16日閲覧
  23. ^ "Yakin Semua Berjalan Baik dengan Pieter Huistra" (Press release) (インドネシア語). ボルネオFCサマリンダ. 22 February 2023. 2023年7月16日閲覧

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
先代
ロン・ヤンス
FCフローニンゲン監督
2010-2012
次代
ロベルト・マースカント
先代
リシャルト・ルロフセン
デ・フラーフスハップ監督
2012-
次代
n/a