ピリッピカ
ピリッピカまたはフィリッピカ(羅: philippica(e)、英: philippic(s))は、特定の政治家などを非難するための激しい攻撃演説を意味する。
原義は「ピリッポスに関する(演説)」といった程度の意味であり、古代ギリシャ・アテナイの政治家・弁論家であるデモステネスが、紀元前4世紀にマケドニア王国の王ピリッポス2世に対して行った数回の非難演説が由来である。
一般的には下述するように、古代共和政ローマの政治家キケロが、政敵である政治家・軍人のマルクス・アントニウスに対して行った弾劾演説を指すことが多い。
歴史
[編集]古代ローマ
[編集]キケロは紀元前44年(初回はこの年の9月2日に行われたとされている[要出典])と紀元前43年、デモステネスの演説を意識的にモデルとしてマルクス・アントニウスを攻撃する演説を行った。現存するブルトゥスとの書簡が本物だとすれば、少なくとも5回目と7回目の演説は当時から「フィリッピカ」と呼ばれていた。アウルス・ゲッリウスはそれらの演説を Antonian Orations と呼んだ。
皮肉なことにデモステネスの演説は功を奏せず、ピリッポス2世の息子アレクサンドロス3世が東方を征服することになった。カエサル暗殺後、キケロは暗殺者らがアントニウスも暗殺してくれなかったことを残念がり、アントニウスの評判を落とす努力をすることにした。キケロはオクタウィアヌスが自らの私的軍隊を合法化したことも擁護した。キケロは全部で14回のフィリッピカを2年未満の期間に行っている。キケロはアントニウスを失脚させること注力したが、オクタウィアヌスがキケロの理想とする共和政への脅威となることを見過ごしてしまい、結果として自身の失脚を招くことになった。
キケロのアントニウスへの攻撃演説は許されず、忘れ去られることもなかった。結果としてプロスクリプティオに名前を公示され、紀元前43年に殺された。オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの第二回三頭政治に反対する者への見せしめとして、彼の頭部と手はフォルム・ロマヌムで晒された。デモステネスはピリッピカを行ったせいで殺されることはなかったが、後に反乱を起こし自害した。
帝政ローマ期の歴史家タキトゥスは、キケロを有名にした業績としてカティリナ弾劾演説などとともにフィリッピカを挙げている。