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パールハウス映画

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パールハウス映画株式会社
Pearl House Eiga Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 消滅
略称 パールハウス
本社所在地 日本の旗 日本
東京都中央区銀座西5-4-4 パールハウスビル
設立 1950年ころ
業種 情報・通信業
事業内容 映画の輸入・配給
代表者 渡辺登
主要株主 辰巳興業
主要子会社 ドイツフィルムコーポレーション
ヨーロッパ・フィルム
パールハウス映画配給
関係する人物 渡辺登
鈴木角五郎
宗田政雄
岡枝慎二
トニー・ザイラー
特記事項:略歴
1950年ころ 設立
1965年ころ 活動停止
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パールハウス映画株式会社(パールハウスえいが-、Pearl House Eiga Co., Ltd., 1951年ころ 設立 - 1965年ころ 活動停止)は、かつて存在した日本の映画会社である。

略歴・概要

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1950年代、1951年(昭和26年)までには設立され、渡辺登が代表取締役社長に就任している[1]。翌1952年(昭和27年)4月17日には、スペイン映画アラゴンの要塞』を輸入し、映配との共同配給で公開している[2]。その後も、映配のほか、ハンセン・ベルンシュタイン商会大映松竹洋画部大和フィルムとの共同配給を行う[2]

1956年(昭和31年)8月、西ドイツ(現在のドイツ)の映画会社バヴァリア・フィルム等の輸入代理店としてドイツフィルムコーポレーション(ドイツフィルム株式会社)を設立する[3]。1958年(昭和33年)4月、関係会社として資本金1,000万円の「パールハウス映画配給株式会社」を設立、東京・深川不動前に辰巳温泉を所有する辰巳興業社長の鈴木角五郎を新子会社の社長に就任させ[4]、鈴木は「パールハウス映画」では副社長に就任、常務取締役には、1930年代に大阪の千鳥興業の専務取締役としてマキノトーキー製作所の経営に関わった宗田政雄が就任、外国課長にはのちに字幕翻訳家として知られた岡枝慎二がいた[5]

1959年(昭和34年)には、トニー・ザイラーの来日に尽力する。1960年(昭和35年)には、同年のスコーバレーオリンピックに取材したドキュメンタリー映画一九六〇年冬季オリンピック大会 人類の希望と栄冠』を大和フィルムと共同で配給した[6]

1963年(昭和38年)11月に倒産したフランス映画中心の配給会社新外映配給を買収、ヨーロッパ・フィルムと改称し、ドイツ映画を輸入配給している[2][7]

同社が所在した「パールハウスビル」は、中央区立泰明小学校の並びに第二次世界大戦前の1927年(昭和7年)に建てられた歴史的建築であったが、隣接する中華料理店・鳳鳴春同様に改築され、現存しない。同ビルには、ハンセン・ベルンシュタイン商会も所在した[8]

会社データ

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おもなフィルモグラフィ

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キネマ旬報映画データベースに見られる配給作品の一覧であり、日本での配給作品のみである[2]。日本公開順。

脚注

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  1. ^ a b 田中, p.102.
  2. ^ a b c d キネマ旬報映画データベース Archived 2012年1月30日, at the Wayback Machine.、2010年7月4日閲覧。
  3. ^ 『映画年鑑 1957』、p.598.
  4. ^ 『映画年鑑 1959』、p.268.
  5. ^ 『映画年鑑 1959』、p.187.
  6. ^ 一九六〇年冬季オリンピック大会 人類の希望と栄冠キネマ旬報映画データベース、2010年7月4日閲覧。
  7. ^ 『日本映画発達史 IV 史上最高の映画時代』、p.462.
  8. ^ 『電通広告年鑑 1956年』、p.749.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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