バーニー・ウォーレル
バーニー・ウォーレル Bernie Worrell | |
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バーニー・ウォーレル(2009年) | |
基本情報 | |
出生名 | George Bernard Worrell, Jr. |
生誕 |
1944年4月19日 アメリカ合衆国ニュージャージー州ロングブランチ |
死没 |
2016年6月24日(72歳没) アメリカ合衆国ワシントン州エバーソン |
ジャンル |
ファンク ロック オルタナティヴ・ロック ブルース・ロック R&B |
職業 |
ミュージシャン 作曲家 音楽プロデューサー |
担当楽器 |
キーボード オルガン |
活動期間 | 1947年 - 2016年 |
共同作業者 |
パーラメント ファンカデリック プラクシス カーネル・クレイプールズ・バケット・オブ・バーニー・ブレインズ バーニー・ウォーレル・アンド・ザ・ウー・ウォーリアーズ トーキング・ヘッズ |
公式サイト | bernieworrell.com |
バーニー・ウォーレル(Bernie Worrell、1944年4月19日 - 2016年6月24日[1])は、アメリカ合衆国のミュージシャンでキーボーディスト、オルガニスト、アレンジャー。ニュージャージー州ロングブランチ生まれ、ニュージャージー州プレインフィールド育ち。Pファンク主要メンバーの一人。
来歴
[編集]バーニーはトラック運転手の父と、教会で歌う歌手で家政婦の母の子として生まれた。3歳からピアノを習い、4歳で初めてのコンサートを行い、8歳でピアノ協奏曲を自作し、10歳でワシントン・シンフォニー・オーケストラと共演するなど早熟・天才として知られ、また絶対音感の持ち主であった[1]。8歳でニュージャージー州プレインフィールドに移住した。プレインフィールドでは母の目を盗んでジョージ・クリントンの床屋に通い、ジョージとザ・パーラメンツのために譜面を読み書きしてあげたりしていたという。高校卒業後ジュリアード音楽院でプライベートレッスンを受けた後、アメリカ名門音楽院の一つであるニューイングランド音楽院に進学し、クラシック音楽を学んだ。同院在学中にバーニーは、ナイトクラブでR&Bやジャズも演奏し、またチュビー&ザ・ターンパイクス (Chubby & The Turnpikes) というグループで演奏した。このグループは後のタヴァレス (Tavares) である。同院卒業後はソウル歌手マキシン・ブラウン (Maxine Brown) のバンドリーダーを約5年間務めた。1969年ジョージ・クリントンに勧誘され、ジョージ率いるファンク・ロックバンド、ファンカデリックのファースト・アルバム『ファンカデリック Funkadelic 』の録音に参加した。そして1970年発表のファンカデリックのセカンド・アルバム『フリー・ユア・マインド Free Your MInd...And Your Ass Will Follow 』から正式にバンドのメンバーとしてクレジットされるようになった。またファンカデリックと同じメンバーからなる別名のファンクグループ「パーラメント」においてもキーボーディストとして活躍した。このファンカデリックおよびパーラメントの作る音楽をPファンクと呼ぶ。
バーニーはPファンクにおいて、ピアノ、ハモンドオルガン、モーグ・シンセサイザーを駆使し、まさに革新的・独創的な音作りを行った。その他シンセサイザーによるストリングアレンジその他Pファンクの音作りの根底を築いた。その他、Pファンクの周辺グループであるブーツィーズ・ラバー・バンドやブライズ・オブ・ファンケンシュタインにも参加し、メンバーの出入りの激しいPファンク軍団において最初から最後まで参加した、最も重要な中心人物である。
1980年代に入るとPファンクの活動は急速に収束した。バーニーは1980年代にトーキング・ヘッズの準メンバーとして活躍した他、スライ&ロビー、プリテンダーズ、キース・リチャーズ、ジャック・ブルース等、数多くのミュージシャンと共演、客演し、非常に数多くのアルバムを残している。1990年にはキース・リチャーズ、デヴィッド・バーン、ハービー・ハンコック等をゲストに迎えたソロ・アルバム『ファンク・オブ・エイジズ』を発表し、それを機にソロ活動も継続的に行うようになった[1]。2004年には、ベーシストのレス・クレイプール、ギタリストのバケットヘッド、ドラマーのブライアン・マンティアとコロネル・クレイプール・バケット・オブ・バーニー・ブレインズを結成し、アルバムを発表している。
1992年には日本のシンガー、NOKKOのアルバム『Hallelujah』に参加、バーニーのレコーディングには若いエンジニアがこぞって見学に来たとNOKKOがインタビューで明かしている[2]。
2016年6月16日、ステージ4の肺癌であることがバーニーの妻を通じてアナウンスされた。2016年6月24日、肺がんで逝去。72歳没[3]。
ディスコグラフィ
[編集]ソロ・アルバム
[編集]- 『オール・ザ・ウー・イン・ザ・ワールド』 - All the Woo in the World (1978年、Arista Records)
- 『ファンク・オブ・エイジズ』 - Funk of Ages (1990年、Gramavision)
- 『ブラックトロニック・サイエンス』 - Blacktronic Science (1993年、Gramavision)
- 『ジ・アザー・サイド』 - Pieces of Woo: The Other Side (1993年、CMP Records)
- 『フリー・エージェント』 - Free Agent: A Space Odyssey (1997年、Black Arc)
- 『インプロビザリオ』 - Improvisczario (2007年、Godforsaken Music)
- Standards (2011年)
- 『エレヴェーション』 - Elevation: The Upper Air (2013年、M.O.D. Technologies)
- Retrospectives (2016年、PurpleWOO Productions)
ファンカデリック
[編集]パーラメント
[編集]コロネル・クレイプール・バケット・オブ・バーニー・ブレインズ
[編集]- The Big Eyeball in the Sky (2004年、Prawn Song Records)
その他の代表的参加アルバム
[編集]- The Name of This Band Is Talking Heads (1982年、Sire Records)
- 『スピーキング・イン・タングス』 - Speaking In Tangs (1983年、Sire Records)
- 『ストップ・メイキング・センス』 - Stop Making Sense (1984年、Sire Records)
- 『ゲット・クロース』 - Get Close (1986年、Real Records)
- 『トーク・イズ・チープ』 - Talk Is Cheap (1988年、Virgin Records)
- 『クエスチョン・オブ・タイム』 - A Question of Time (1989年、Epic Records)
- 『シティーズ・オブ・ザ・ハート〜ライヴ1993』 - Cities of the Heart (1994年、CMP Records)
- 『モンクジャック』 - Monkjack (1995年、CMP Records)
- 『ブリング・エム・イン』 - Bring 'Em In (2005年、Silvertone Records)
脚注
[編集]- ^ a b c Sweeting, Adam (2016年6月26日). “Bernie Worrell obituary”. The Guardian. Guardian News and Media. 2018年9月16日閲覧。
- ^ “NOKKO スペシャル・ロング・インタビュー”. OTONANO. 30 June 2024閲覧。
- ^ “「鍵盤の魔術師」バーニー・ウォーレルさん死去 Pファンクの主要人物”. スポニチアネックス. (2016年6月25日) 2016年6月27日閲覧。