バーデン大管区
- バーデン大管区
バーデン=エルザス大管区 - Gau Baden
Gau Baden-Elsass -
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←1925年 - 1945年 →
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→(国旗) (大管区章) - 国の標語: Ein Volk, ein Reich, ein Führer
一つの民族、一つの国家、一人の総統 - 国歌: Deutschlands Weltklasse
世界に冠たるドイツ
党歌: Die Fahne hoch
旗を高く掲げよ
ナチス・ドイツの地図-
公用語 ドイツ語 首都 カールスルーエ
(1933年 - 1940年)
シュトラスブルク
(1940年 - 1945年)- 大管区指導者
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1925年 - 1945年 ロベルト・ワーグナー - 面積
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15,090km² - 人口
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1941年 2,502,023人 - 変遷
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成立 1925年3月22日 廃止 1945年5月8日
通貨 ライヒスマルク(ℛℳ) 現在 ドイツ
フランス - 【大管区登録番号】 第1番
バーデン大管区(バーデンだいかんく、ドイツ語: Gau Baden)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の設置した大管区の一つである。
概要
[編集]バーデン大管区は、ロベルト・ワーグナーにより1925年に設置された。1927年から大管区紙『指導者』(Der Führer)はフランツ・モララーの下で出版され、1928年からは後に文化大臣となるオットー・ヴァッカーにより出版された。1926年より大管区宣伝指導者のカール・レンツは副大管区指導者となり、1930年の国会選挙に当選した。ヴァインハイムの地区指導者ヴァルター・ケーラーは、1933年のナチ党の権力掌握迄、副大管区指導者となっていた。1934年、ハイデルベルク管区指導者のヘルマン・レーンが大管区幕僚長に就任した。
ワーグナーは1933年3月11日に臨時政府を召集し、バーデン共和国大統領の職を引き継ぎ、5月5日に国家代理官に任命された。ヴァルター・ケーラーは5月6日に首相に就任し、特に経済政策に於て自らの権力を行使した。大管区の領域はバーデン共和国の実際の地域とは全く対応していなかった[1]。
第二次世界大戦勃発後の1940年、ワーグナーは占領下のアルザス地方を含む新しい帝国大管区である「上ライン帝国大管区(Reichsgaus Oberrhein)」の設立を推進したが、これは実現しなかった。しかし、1941年3月22日よりアルザス地方がバーデン大管区と合併し、バーデン=エルザス大管区(Gau Baden-Elsass)として再編された。1940年5月20日、バーデンに於るシンティ・ロマ人とロマがシュトゥットガルト近郊のホーエナスペルグ集会所に連行され、そこからポーランドに強制移送された。アルザスの占領後、ロベルト・ワーグナーは1940年6月20日にアルザス地方の「アーリア化」を主目的に民政長官に就任し、ケーラーは財政長官を引き継いだ。アーリア化政策により、45,000人の現地人がアルザスから追放された。1940年10月22日から23日、大管区内のユダヤ人が集められ、南フランスのグル強制収容所に移送された。当初は秘匿とされていたこの移送計画は、ヨーゼフ・ビュルケル(ザールプファルツ大管区指導者)とロベルト・ワーグナーによって計画され、親衛隊指導者グスタフ・アドルフ・シェールによってカールスルーエで実行された[2]。1941年11月23日、ストラスブール国立大学が開校し、ナチズムに基づく思想教育が実施された。大管区内には、シルメック=フォルブルック治安収容所とナッツヴァイラー強制収容所が存在した。
国政本局はシュヴァルツヴァルトのホルンベルク城に置かれ、1940年からはカルスパッハに独自の大管区学校が設立された[3]。市職員向けの研修はアルザスのシェーネック=トゥルンベルクとイルキルシュ=グラフェンスタデンで行われた。
備考
[編集]大管区指導者
[編集]- 大管区指導者
- ロベルト・ワーグナー(1925年2月26日-1945年4月末)
- ヴァルター・ケーラー(1932年12月-1933年3月、ワーグナーの帝国大管区異動後に臨時指導者代行)
- 副大管区指導者
- カール・レンツ(1926-1931年8月)
- ヴァルター・ケーラー(1931年8月-1933年5月)
- 空席(1933年5月-1934年5月)
- ヘルマン・レーン(1934-45年)
人事
[編集]- 大管区経済顧問及びバーデン経済担当国家委員
- クレメンス・ケントロップ
- 大管区監督官
- ロベルト・ロス
- 大管区DAF代表
- フリッツ・プラットナー(-1938年)
- 大管区弁士及びハイデルベルク大学学長兼文化担当
- ポール・シュミットナー教授(1940年-)
- NSV局長及びハイデルベルク管区指導者
- フィリップ・ディンケル
- 大管区党教員連盟総長及びラール地区指導者
- カール・ゲルトナー
- 大管区党裁判長及びカールスルーエ地区指導者
- ウィリー・ヴォルチ
- 人種政策局長
- カール・シュナイダー(1937-40年)
組織
[編集]- 大管区本部[4]
- カールスルーエ、リッター通り28番地(1933-1940年)
- ストラスブール、ピオニエガッセ4番地(1940年8月7日-1945)
- 大管区指導者学校
- フラウエナルブ
- SA『ジュードヴェスト(南西)』管区集団本部
構成管区
[編集]- ブルッフザール
- ブーヒェン
- ビュール
- ドナウエッシンゲン
- エメンディンゲン
- フライブルク・イム・ブライスガウ
- ハイデルベルク
- カールスルーエ
- ケール・アム・ライン
- コンスタンツ
- ラール
- レラッハ
- マンハイム
- モースバッハ
- ミュールハイム
- ティティゼー=ノイシュタット
- オッフェンブルク
- プフォルツハイム
- ラシュタット
- ゼッキンゲン
- ジンスハイム
- シュトッカッハ
- ユーバーリンゲン
- フィリンゲン
- ヴァルツフート
- ヴェルトハイム
- ヴォルファッハ
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- Horst Ferdinand: Köhler, Walter Friedrich Julius, NS-Politiker, Kaufmann. In: Baden-Württembergische Biographien. Band II, Kohlhammer, Stuttgart 1999, ISBN 3-17-014117-1, S. 276–280 (Online)
- Michael Kißener, Joachim Scholtyseck (Hrsg.): Die Führer der Provinz. NS-Biographien aus Baden und Württemberg, Konstanz 1997
関連項目
[編集]- マルティン・ハイデッガー - 当時、ナチ党に所属し、レラッハのトートナウベルクを寓居としていた。
- ナチス・ドイツの機構
- 大管区