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バーゼルの和約 (1499年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バーゼルの和約
シュヴァーベン戦争終わりの1499年、バーゼルの和約の交渉。ミラノ特使がバーゼル市役所でガレアッツ・ヴィスコンティ英語版が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の代表団に和平案を提示しており、ルツェルンからの代表者(前列左、青と白のドレス)がそれを通訳をしている。(ルツェルン・シリングより)
署名 1499年9月22日 (1499-09-22)
署名場所 バーゼル
当事国 原初同盟の旗 原初同盟英語版
シュヴァーベン同盟
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バーゼルの和約(バーゼルのわやく)は、ドルナッハの戦い後の1499年9月22日に結ばれた休戦協定であり、シュヴァーベン同盟原初同盟英語版間で行なわれたシュヴァーベン戦争を終結させた[1]

この条約により、戦争前の原状の領土が回復された。十裁判区同盟の10つの加盟区のうち8つの区は名目上ハプスブルク家に服属することが確認されたが、同盟への加盟と原初同盟との同盟は維持されることになった。

これまで帝国からコンスタンツ市に貸し出されていたトゥールガウ州の管轄権は、原初同盟に移されることになった。また、スイスの邦人に対する帝国アハト刑とすべての禁輸措置が廃止された。

19世紀のスイス史学では、この条約は、原初同盟の神聖ローマ帝国からの「事実上の」独立に向けた重要な一歩であるとされた。この条約は、ヴィルヘルム・オクスリ英語版(1890年)の言葉によれば、「ドイツがスイスの独立を認めた」ことを表す。しかしこの見解は、20世紀の文献で当時の盟主たちが神聖ローマ帝国と距離を置こうとした形跡がないため、成り立たないとされるようになった。しかし、この条約によって原初同盟は帝国内の政体として大幅に強化された。その直接的な結果に、中世末期の8州から近世初期の13州への拡大(1481年-1513年)の一環として、1501年にバーゼル州とシャフハウゼン州が加盟したことがらあげられる[2]

関連項目

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脚注

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  1. ^ Oechsli, Wilhelm; Paul, Eden; Paul, Cedar (1922). “III, Mercenary Campaigns in Italy”. History of Switzerland, 1499-1914 (1922). Cambridge historical series. Ed. by Sir G.W. Prothero. Cambridge: University Press. p. 26. OCLC 2884964. https://books.google.com/books?id=oS1pAAAAMAAJ&pg=PA23 November 6, 2010閲覧。 
  2. ^ Claudius Sieber-Lehmann: Basel, Frieden von (1499) in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland, 2004. "Obwohl weder die Wormser Beschlüsse von 1495 noch die Weigerung der Eidgenossen, diesen nachzukommen, erw. sind, sah die ältere schweiz. Historiografie im Frieden von B. einen Wendepunkt im Verhältnis zwischen Eidgenossenschaft und Reich; nach Wilhelm Oechsli wurde damals die "Unabhängigkeit der Schweiz von Seiten Deutschlands" (1890) anerkannt. Diese Meinung gilt heute als widerlegt. Die Berichte des Gesandten Solothurns von den Verhandlungen in B. zeigen vielmehr, dass die Eidgenossen wünschten, "gnedeclich wider zum Rich" gelassen zu werden. Bis ins 17. Jh. hielten die eidg. Orte an ihrer Zugehörigkeit zum Reich fest und waren z.B. bereit, für die Türkenkriege Truppen zu stellen oder Geld für den gleichen Zweck zu bezahlen. Die Konflikte mit dem Haus Österreich und der eidg. Widerstand gegen eine wachsende "Verdichtung" der "offenen" Reichsverfassung (Peter Moraw) schmälerten in der Eidgenossenschaft noch bis weit in die Frühneuzeit nicht das Ansehen des Reichs als oberster Schutzmacht der Christenheit.