バラウル (伝説の竜)
バラウル (ルーマニア語: balaur, 複数形 balauri) は、ルーマニアの民話に登場するドラゴン。多頭で有翼ともされる。
民話では、乙女の生贄を喰らったり、イレアナ王女を捉えたのち、《美童子》ファトフルモスや聖ゲオルギオスなどの勇者に倒される悪役で登場する。
一部の伝承ではバラウルが天候に影響を及ぼすとされ、空中に生息するともいわれるが、その種のバラウルは、アラとも呼ばれており、汎スラブ圏の天候の魔物との混同がみられる。また、天候をあやつる黒魔術師ショロモナルの乗り物となる竜は、ズメウでなくバラウルであるとも伝わる。
またバラウルが宝石を生成するという伝説もある。
概説
[編集]バラウルはルーマニアの伝承で"蛇の怪物"またはドラゴンと定義される[1]。
多頭竜のため、ギリシア神話の地獄犬ケルベロスやヒュドラーに相通ずるとされ[1][2]、また有翼で黄金色であるともいわれる[注 1][2]。
民話ではバラウルは、乙女を食い殺す竜で、《美童子》ファトフルモスに倒される、などと語られる[2]。あるいはバラウルがイレアナ・コスンツァーナ姫を拉致する役に回る場合もあるが、民話学者ラザル・シャイネヤヌによれば、その悪役は通常ズメウが引き受けるもので、この場合のズメウは竜でなく礫状の尾(またはうろこ状の尾)[3])を複数もつ巨人である[2]。このように、バラウルとズメウはしばしば混同される[2][3]。
また、民話学者トゥドル・パムフィレは、水棲(井戸に棲む)・陸棲・空中棲の3種類の民間伝承があるとしている[4]。パムフィレが挙げる典型例ではバラウルは村の井戸に生息し、乙女や乙女の魂を生贄として要求するが、ブスイオック(ルーマニア語: Busuioc)という名の英雄や、聖ゲオルギオスによって竜退治される[4]。
パムフィレの亜種例は、「アルメニアの地」(ルーマニア語: ţara armenească)に生息するとされるバラウルで、宝石を作り出すとされる[4]。バラウルの唾液が宝石に変成するという言い伝えがワラキア地方にあることは、19世紀のアメリカの作家コーラ・リン・ダニエルズにより記録されている[5]。ただ、蛇の唾液は宝石に変化するという俗信は、英国から中国まで広域に存在する、とローマニアの民俗学者ミルチャ・エリアーデは述べている[注 2][6]。
バラウルは、一部の伝承では天候と深く関わるとされ、ハラやアラと呼ばれるが[4]、これはスラヴ全般に伝わる水や空気の魔物の事である。これをパムフィレは空中に棲む「第三の種類」のバラウルと位置付ける[4]。フランスのルーマニア語翻訳家でヴァンパイアの著作もあるアドリエン・クレメネ (Adrien Cremene) の説明でも、空中にも棲むことができ、雲やもや、地下水の流れを操ることもできるという[7]。パムフィレによれば、二匹のバラウルが出会って戦うと、大木が根こそぎにされたり、戦い後に嵐がおきたり、雹が降るといわれる[4]。
バラウルには虹を道として使い、あらゆる場所から水気を奪い、やがてのち降雨をもたらすという伝説がある[4]。また、バナト・ブルガリア人の伝説のラミャ、現地ではラマ(バナト・ブルガリア方言:lam'a) と称される竜は、海から水分を吸い取り、雨雲に貯えるとされているが、よく似た伝説がバラウルにもあるという[注 3][8]。
また、天候操作の秘術を悪魔より教育された黒魔術師ショロモナル(ショロマンツァ学校生)の乗り物はズメウ竜であるとされることがしばしばであるが[9]、バラウル竜に乗るとする資料もある。バラウルを御するためには、黒魔術師たちは「金色の頭絡」を竜にはめてつかうという[注 4]。バラウル竜は、待機するあいだは湖中深くに潜むとされる[10][11][12]。
語源
[編集]ルーマニア語 balaur(マケド・ルーマニア語 bul'ar)の語源は定かでない。一仮説によればアルバニア語 boljë(「蛇」)、 buljar(「水蛇」)に通じ[1]、 それらはトラキア語の語根 *bell- や *ber- 「獣、怪物」より発生した語で、同じ語根はギリシア神話の英雄の名ベレロポーン(Bellerophon「獣を殺す者」の意)にも名残をとどめるといわれる[13][14]。
トランシルヴァニア・ザクセン方言 balaur「竜」や balaura は、セルビア語で転じて悪口に使われる借用語である[14][15]。セルビア・クロアチア語 blavor/blaor/blavur(「バルカンヘビガタトカゲ」)は、balaurと同源語であり、古代バルカン諸語から現代セルビア・クロアチア語に遺される数少ない単語例だとされている[15]。
バラウルに由来する名前
[編集]ルーマニアで発見された恐竜は、2010年8月に、民話のバラウルにちなんでバラウル・ボンドックと名付けられた[16]。
また、「バラウル」はルーマニアの人名にもみられる[注 5]。
注釈
[編集]- ^ 言語学者・民話研究家のラザル・シャイネヤヌに拠る。
- ^ エリアーデは、蛇石についての論文に詳述: " Piatra Sarpelui ", Mesterului Manole, Bucharest, 1939, pp. 1–12.
- ^ アンナ・プロトニコアの論文ではさらに、このラミャ(ラマ)伝説はスラブの空気や水の魔物アラの伝承が"混入したもの(contaminations)"であると論じている。
- ^ ルーマニア語: un frâu de aur)、ドイツ語: ein goldene Zaum、ドイツ語: a golden rein.
- ^ たとえば、Ionuţ Balaur ヨヌツ・バラウル(ルーマニア人のサッカー選手。所属チームはルーマニア1部リーグのFCヴァスルイ)など。
出典
[編集]- ^ a b c Nandris, Grigore (1966), “The Historical Dracula: The Theme of His Legend in the Western and in the Eastern Literatures of Europe”, Comparative Literature Studies 3 (4): 377; Reprinted in: Aldridge, Alfred Owen, ed (1969). Comparative literature: matter and method. University of Illinois Press. p. 124
- ^ a b c d e Sainéan, Lazare (1901), “Terminologie folklorique en roumain”, La tradition 11: 227
- ^ a b Prut, Constantin Sergiu Marcus訳 (1983), “The World of Fabulous Creatures”, Romanian Review 37 (2-3): 170
- ^ a b c d e f g Pamfile, Tudor (1916). “bălaurii”. Văzduhul după credințile poporului român. Academia română. Din vieața poporului român, culegeri și studii, XXV. București: Socec & comp.. p. 313–316. オリジナルの2019-01-05時点におけるアーカイブ。
- ^ Daniels, Cora Linn Morrison; Stevens, Charles McClellan (1903). Encyclopaedia of Superstitions, Folklore, and the Occult Sciences of the World: A Comprehensive Library of Human Belief and Practice in the Mysteries of Life. J. H. Yewdale & sons Company. pp. 1419–1420
- ^ Eliade, Mircea Rosemary Sheed訳 (1996) [1958]. “167. The Degradation of Symbols”. Patterns in Comparative Religion. U of Nebraska Press. p. 207; (originally in Romanian) "Tratat De Istorie A Religiilor"
- ^ 『吸血鬼伝説』p. 142.
- ^ Plotnikova, Anna (2001), “Ethnolinguistic phenomena in Boundary Balkan Slavic areas”, Славянская диалектная лексика и лингвогеография 7: 306
- ^ Florescu, Radu; McNally, Raymond T. (2009). Dracula, Prince of Many Faces: His Life and His Times. Little, Brown . "Ismeju [the correct Romanian spelling is Zmeu, another word for dragon]" ISBN 9-780-3160-9226-5
- ^ Marian (1879): "Cînd voiesc Solomonarii să se suie în nori, iau friul cel de aur şi se duc la un lac fără de fund sau la o altă apă mare, unde ştiu ei că locuiesc balaurii", quoted in: Hasdeu, Bogdan Petriceicu; Brâncuș, Grigore (1976) edd., Etymologicum Magnum Romaniae 3, p. 438.
- ^ Marian (1879), pp. 54–56, German (tr.), Gaster, Moses (1884), "Scholomonar, d. i. er Grabancijaš dijak nach der Voksüberlieferung er Rumänen ", Archiv für slavische Philologie VII, p. 285: "Mit diesem Zaum zäumen die Solomonari die ihnen anstatt Pferde dienenden Drachen (Balauri)" or, "With these [golden] reins, the Solomonari rein their dragons (balauri) that they use instead of horses".
- ^ Ljiljana, Marks (1990), “Legends about the Grabancijaš Dijak in the 19th Century and in Contemporary Writings”, Acta Ethnographica Hungarica 54 (2): 327
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- 参考文献
- マリニー, ジャン『吸血鬼伝説』中村健一訳、創元社〈「知の再発見」双書 38〉、1994年6月、142頁。ISBN 978-4-422-21088-9。