ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ
ハンス・エルヴィン・グラーフ(伯爵)・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ(Hans Erwin Graf von Spreti-Weilbach 、1908年9月24日‐1934年6月30日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織突撃隊(SA)の隊員。突撃隊大佐。突撃隊幕僚長エルンスト・レームの副官。長いナイフの夜の際に粛清された。
略歴
[編集]カールスルーエ出身。ギムナジウムを出た後、ヴァイエンシュテファン(Weihenstephan)の農業・醸造王立研究所やミュンヘン工科大学に入って農業を学ぶ。1932年に農学士の試験に合格[1]。
1920年代終わり頃にナチ党と突撃隊に参加している。1931年に突撃隊幕僚長エルンスト・レームの副官となる。レームと同性愛の関係の醜聞があった。1933年3月に突撃隊大佐(SA-Standartenführers)に昇進。
ナチ党政権掌握後、突撃隊幹部の粛清を決意したアドルフ・ヒトラーは、1934年6月28日にレームやフォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ他突撃隊幹部に対して会合を提案してバート・ヴィースゼー(Bad Wiessee)に呼び集めた。1934年6月30日5時30分頃にヒトラー自らが率いる親衛隊隊員たちがここに到着し、レームともども逮捕され、シュターデルハイム刑務所(Justizvollzugsanstalt München in der Stadelheimer Straße)へ投獄された。ヒトラーはレームの処刑についてはしばらく悩み、処刑を翌日まで許可しなかったが、フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハら他の突撃隊幹部の処刑は許可した。夕方、ヨーゼフ・ディートリヒら「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」部隊員が現れ、アウグスト・シュナイトフーバー、ヴィルヘルム・シュミット、ペーター・フォン・ハイデブレック、エドムント・ハイネス、ハンス・ハインの5名とともに中庭へ連れて行かれて銃殺された[2]。
彼の両親は遺骨の入ったツボを受け取ることを認められ、フォン・シュプレーティ・ヴァイルバッハ伯爵家の墓に葬られた[3]。
出典
[編集]- ^ Andreas Dornheim著『Röhms Mann fürs Ausland. Politik und Ermordung des SA-Agenten Georg Bell』LIT Verlag, 1998, ISBN 3-8258-3596-0, 231ページ
- ^ ノルベルト・フライ著『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』岩波書店。1994年。ISBN 978-4000012409, 37ページ
- ^ Bernd-Ulrich Hergemöller著『Mann für Mann – Ein biographisches Lexikon』Hamburg: Suhrkamp Taschenbuch, 2001; ISBN 3-518-39766-4