ハロルド・ソロモン
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基本情報 | ||||
愛称 | ソリー (Solly) | |||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||
出身地 | 同・ワシントンDC | |||
生年月日 | 1952年9月17日(72歳) | |||
身長 | 167cm | |||
体重 | 59kg | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 両手打ち | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1972年 | |||
引退年 | 1986年 | |||
ツアー通算 | 23勝 | |||
シングルス | 22勝 | |||
ダブルス | 1勝 | |||
生涯通算成績 | 636勝443敗 | |||
シングルス | 563勝314敗 | |||
ダブルス | 73勝129敗 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 出場なし | |||
全仏 | 準優勝(1976) | |||
全英 | 1回戦(1972・74・77・86) | |||
全米 | ベスト4(1977) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 5位 | |||
ダブルス | ?位 | |||
ハロルド・ソロモン(Harold Solomon, 1952年9月17日 - )は、アメリカ・ワシントン出身の元男子プロテニス選手。1976年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは5位。ATPツアーでシングルス22勝、ダブルス1勝を挙げた。身長167cm、体重59kgで、男子プロテニス界では小柄な体格の選手だった。ソロモンは“the human backboard”(人間バックボード)と呼ばれたほど温厚な人柄の持ち主だったが、対戦相手の選手たちは彼の巧みなロブショットやリターンに“いらだつ”ことが多かったという。
経歴
[編集]ソロモンは5歳からテニスを始め、ライス大学在学中の1972年にプロ入りした。4大大会初出場だった1972年全仏オープンで、ソロモンは1回戦でマーティン・マリガン、2回戦でジミー・コナーズ、3回戦でギリェルモ・ビラスを破って勝ち進み、マニュエル・オランテス(スペイン)との準々決勝まで勝ち進む。それ以来、ソロモンは全仏オープンで抜群の強さを発揮した。2年後の1974年、ソロモンはビョルン・ボルグとの準決勝に進んだ。そしてついに、彼は1976年全仏オープンで決勝に進出したが、イタリアのアドリアーノ・パナッタに 1-6, 4-6, 6-4, 6-7 で敗れて準優勝になった。
ソロモンは全米オープンでも、1977年にベスト4進出がある。この準決勝では、ソロモンはギリェルモ・ビラスに 2-6, 6-7, 2-6 のストレートで敗れた。それから3年後、1980年にソロモンは全仏オープンで4年ぶり3度目の準決勝進出を決めたが、そこではボルグに 2-6, 2-6, 0-6 のストレートで完敗した。1980年の大会では、ボルグは「全試合ストレート勝ち」を達成するほどの絶好調ぶりだった。3度目の全仏準決勝進出の後、ソロモンは世界ランキングを自己最高の「5位」に上げたが、1980年10月のイスラエル・テルアビブ大会の優勝を最後に、ATPツアーの優勝から見放されてしまった。
ハロルド・ソロモンはキャリアを通じて全仏オープンを最も得意としたが、ウィンブルドンは4度のみの出場で、すべて初戦敗退に終わり、芝生の大会では1勝もできなかった。全豪オープンには1度も出場していない。1980年から1983年まで、ソロモンは男子プロテニス協会の会長を務めた。1986年に現役を引退してからは、テニスコーチとしても優れた力量を発揮し、メアリー・ジョー・フェルナンデスやジェニファー・カプリアティなどのトップ選手たちのコーチに携わってきた。2004年に「国際ユダヤ人スポーツ殿堂」入りを果たしている。
外部リンク
[編集]- ハロルド・ソロモン - ATPツアーのプロフィール
- ハロルド・ソロモン - デビスカップのプロフィール
- ハロルド・ソロモン - 国際テニス連盟
- 国際ユダヤ人スポーツ殿堂(英語)
- ユダヤ人スポーツ選手紹介(英語)