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ノート:黒井悌次郎

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二児変死の段落は不要

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元の文で、二児変死事件を日露戦争中とする年代誤認があったので訂正しました[1]。訂正したあとの文章を読むと、この段落は、そもそも必要ないのではないかと思うのですが、みなさん、如何でしょうか。--rshiba 2009年8月24日 (月) 11:35 (UTC)(編集の版を記入--rshiba 2011年6月6日 (月) 09:57 (UTC)[返信]

日露戦争中の経歴

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『日本海軍史』第9巻「将官履歴」によると、明治36年7月3日に「佐世保鎮守府参謀兼望楼監督官副官」、その地位から翌37年6月6日に「香港丸乗組」となっています。本記事の元々の情報源がかなり信頼性に乏しいものかと推測されます。従って、コメントアウト分から、明治37年「6月6日、仮装巡洋艦香港丸に乗組みを命ぜられた。同年12月から翌年1月にかけて、井上敏夫艦長の指揮下、仮装巡洋艦2艦、香港丸・日本丸によるシンガポールスンダ海峡方面への牽制・偵察のための遠洋航海を経験した。帰航直後、明治38年(1905年1月12日の人事異動で大佐に昇進。同時に旅順口工作廠長に就任する。」を復活させました[2]井上敏夫 (海軍軍人)#関連事項に記した「香港丸南航(1904年12月~1905年1月)」は、『日本海軍史』の「将官履歴」を通覧し、日露戦争中に仮装巡洋艦香港丸に乗り組んだ海軍軍人をピックアップしたもの。 --rshiba 2011年6月6日 (月) 05:58 (UTC)[返信]

お役に立つかどうかは自信がありませんが、黒井の履歴について他の資料を。『職員録』(明治37年甲第33冊)では佐世保鎮守府参謀、望楼監督官(明治37年5月1日現在)に黒井の名があります(翌年5月現在のものは千坂智次郎)。また『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』(第九刷 1994年)では明治37年7月22日、旅順陸戦隊重砲隊指揮官。明治38年1月12日、大佐、旅順工作廠長。アジア歴史資料センター『明治37年10月25日調准士官以上総員名簿海軍陸戦重砲隊 』(ref:C09050598600)では海軍陸戦重砲隊 指揮官 香港丸 黒井悌次郎とあります。第三中隊長が 香港丸 永野修身。他にも香港丸と摘要がある士官がおり、他の士官は日本丸と摘要があります。従って陸戦重砲隊の幹部はこの両船から派遣され、黒井は香港丸乗組み(古参中佐ですから副長?)、重砲指揮官、香港丸に復帰し南方に向かうという流れかと。永野の一弾は明治37年8月、旅順港のロシア艦隊は12月上旬には砲撃を受け大破(海軍重砲隊も参加)ですから矛盾は無いようです。黒井が重砲隊指揮官であったことは伊藤正徳『大海軍を想う』にも「6月上旬、乃木軍・・・黒井悌次郎中佐(後に大将)を指揮官とし・・・」(昭和31年再版「東郷の最大の苦戦」)とあります。従って出典が明記されないようでしたら、現在の記述を改め、重砲隊指揮官であった旨は記述してよいものと考えます。なお永野は明治38年1月12日付旅順工作廠廠員に発令されており黒井の旅順工作廠長と同日発令です。香港丸の動きは調べていないので気が引けるのですが、黒井、永野が重砲隊から復帰し南方の航海へ同行したかは別資料の出典が必要な気がします。以上参考までに。--Stingfield 2011年6月6日 (月) 16:21 (UTC)[返信]
『極秘明治三十七八年海戦史』第1部巻9第3編「陸軍との共同作戦」第10章「海軍陸戦重砲隊及ひ其の他の陸上動作」(Ref.C05110061600)を見ると、香港丸から籍が移動していますし、香港丸・日本丸の南航時も、旅順に留まっています。--rshiba 2011年6月7日 (火) 05:19 (UTC)[返信]