ノート:肝付兼行
兼行の出身について
[編集]大伴氏は旧姓ではなく肝付氏の本姓なのでそう直しました。喜入肝付氏の出身としていますが本当でしょうか?兼行は城下士の出身で桐野利秋とは親類だったと思います。--125.172.115.34 2007年11月2日 (金) 11:53 (UTC)
- 気が付くのが遅くなって申し訳ありません(かなり昔に更新した記事なので)。取りあえず参考文献を明示させていただきました。ただし、『喜入町史』記載の肝付氏系図とは内容にやや異同がありますので、今後も機会があれば調べてみます。--こぶまき 2008年1月8日 (火) 04:50 (UTC)
- 喜入肝付氏を初め、私領主は鹿児島城で生活しています。ですから、城下士で間違いありません。-コッペパン-122.215.65.92 2008年7月22日 (火) 04:22 (UTC)
- 城下で生活している武士すべて=城下士ではありません。私領主は門閥なので、一線を画します。--222.148.129.137 2009年5月26日 (火) 23:40 (UTC)
兼行の出自についてなのですが、肝付兼行の父、肝付兼武には伝記があります。昭和12年刊行の雑誌「伝記」に連載されていたもので、著者は広瀬豊です。兼行はすでに死去していましたが、その子息の兼英氏、兼行の従兄弟・肝付兼休氏、川畑武夫氏などを訪ねて、資料を集めて書かれたものです。これによりますと、兼武の曾祖父は兼傍といい、天明年間に日置郡串木野の本家から分家し、鹿児島城下に移り住んだそうです。祖父は兼起で文化8年に死亡。兼武の父(兼行の祖父)は兼清といい、「微禄の藩士」とあります。妻は江田太郎兵衛の長女・松。兼清の長男が兼赫で家督を継ぎ、兼武は次男です。桐野利秋の姻戚であったと、この伝記にも書かれていますし、兼行の談話にも「遠縁だった」とあります。下級藩士の家であったことは確かで、喜入肝付氏とは関係なさそうなのですが。参考文献にあげられています川崎大十著『「さつま」の姓氏』の記述は、根拠のあるものなのでしょうか?--Iratume 2008年12月30日 (火) 06:24 (UTC)
- 川崎大十著『「さつま」の姓氏』はあまり信用の出来る図書ではありません。著者は鹿児島の家計図マニアで、史学の専門家ではないためか、内容には出典が無く系図を収集する過程で独自研究や素人の思い込みが入っているようで、この肝付兼行に限らず間違いも多いです(地元の家系マニアはまるでバイブルのように扱ってますが。)。Iratumeさんの仰るとおり、肝付兼行は北方研究の大家である肝付兼武(この人自身立頁されるべき重要人物)の子です。喜入肝付氏の系譜とは遠い先祖はともかくつながりはありません。『「さつま」の姓氏』は明確な根拠の無い異説として脇に追いやり、全般的な記述をあたらめるべきだと思います。--222.148.129.137 2009年5月26日 (火) 23:33 (UTC)
- お返事が遅れまして、申し訳ございません。情報、ありがとうございました。実は私、その川崎大十著『「さつま」の姓氏』を見たことがありませんで、どういう直し方がいいのか判断がつきかねております。この項目を直しますと、肝付兼善も直すべきだと思うのです。肝付兼武の家は、文政ころの鹿児島城下図にあるのですが、非常に小さなもので、小松帯刀の兄弟のものとは思えないのですが、肝付兼善の項目に子となっているのは、やはり、『「さつま」の姓氏』によるものなのでしょうか。肝付兼武については、立ち上げるつもりで下書きをしかかったのですが、けっこういろいろと資料が出てきまして、私は長文書きですので、書いているうちに短くまとめることに苦痛を感じてやめてしまいました。いつになるかわかりませんが、なんとかするつもりではおります。--Iratume 2009年9月20日 (日) 17:13 (UTC)
Iratumeさん宛にわたくしのノートに書いた文章の転載。(以下始め)。すみませんでした。戻しておきます。実は、来春出版予定の『近現代日本人物史料情報辞典 4』に「肝付兼行」の原稿を書いたのですが、わたくしも、遺族が探し出せないままです。海上保安庁水路部が『日本水路史』(1971年)のあとがきを見ると、水路部の編纂担当者が、孫の肝付兼一さんから、肝付兼行について聞き取りをしていることが判ります。日清戦争の直前に、一時、水路部長の職から離れている時期についての『日本水路史』の記述はそのインタビューの反映かと思えます。実際は、現場に出て、西海方面(呉から佐世保、豊後水道付近)の測量をやっていたみたいです。憲政資料室が所蔵する辻新次関係文書(大日本教育会会長、元文部次官)に、測量先からの肝付書翰が1通残り、様子が判明します。ところで、オンライン国会議事録を検索すると「内閣調査室防衛班主任」として肝付兼一さんの名前が出てきます。曾祖父の肝付兼武と一緒で、諜報畑の仕事をしていたのですね。--rshiba 2009年9月20日 (日) 11:35 (UTC) (転載終り)。--rshiba 2009年9月20日 (日) 13:04 (UTC)
- お孫さんの情報、ありがとうございます。私、肝付兼武の方から入りまして、実は先生がこの項目に書かれる前に、さきにここに手を入れようと「肝付男爵薨去」水産界473(大日本水産会)のコピーのみは手に入れていたのですが、あまりに情報が少なかったものですから、書きようもなくておりました。この出自の件なのですが、『「さつま」の姓氏』の記述と雑誌「伝記」の記述と、どちらが資料価値があると判断されますでしょうか? 上で情報をいただいておりますし、肝付兼武について、雑誌「伝記」をもとにした宮地佐一郎氏の講演録がありますし、個人的には広瀬豊の伝記の方が正しいだろう、と思っているのですが。--Iratume 2009年9月20日 (日) 17:13 (UTC)
- 黎明館の紀要に載っていた宮地正人さんの講演録ならば、入手しました。それとは別に、宮地佐一郎さんのものがあるのですか? (一寸確認)。『水産界』の記事は、葬儀の出席者データとしては貴重です。わたくしの興味からは、徳富蘇峰が来ていたことが目につきます。 ---rshiba 2009年9月20日 (日) 23:20 (UTC)
- いえ、黎明館のもののみだと思います。現在の本文「系譜」は、「旧姓は江田。肝付氏は本姓大伴氏であるため、大伴兼行とも称した。通称は船太郎。肝付兼善の孫、肝付兼武の子で薩摩藩家老小松清廉の甥[1]。当初兼赫の家督を相続したが、従兄弟で先代当主兼赫の4男兼睦に家督を譲り、1895年(明治28年)8月に分家した。なお、兼行の妻ムツは兼赫の2女で兼睦の姉である」とあります。
- このうち、「旧姓は江田」がどこからきたものか、私にはわからないのですが、続く「大伴兼行とも称した。通称は船太郎」をのぞけば、続く「肝付兼善の孫、肝付兼武の子で薩摩藩家老小松清廉の甥」までは、脚註の「 上級薩摩藩士で家格一所持の肝付三男家(喜入5500石)に生まれたという異説がある」と同じ意味で(つまり、異説ではなく、同じことを脚註でいっていることになります)、典拠は『「さつま」の姓氏』と思われます。
- 「当初兼赫の家督を相続したが、従兄弟で先代当主兼赫の4男兼睦に家督を譲り、1895年(明治28年)8月に分家した」も典拠は『「さつま」の姓氏』と思われますが、兼武が肝付三男家・兼善の子ではなく、兼武伝記にありますように、微禄の藩士・兼清の子としますと、兼武伝記にも「兼武の兄は兼赫」とありますし、しりぞける必要はないようにも思えます。「なお、兼行の妻ムツは兼赫の2女で兼睦の姉である」のうち、「兼行の妻ムツは兼赫の2女」の部分は、「華族家系大成」で確かめることができます。
- というわけでして、どのように直せばいいものか、私には、わけがわからなくなっております。--Iratume 2009年9月21日 (月) 02:24 (UTC)
- 黎明館の紀要に載っていた宮地正人さんの講演録ならば、入手しました。それとは別に、宮地佐一郎さんのものがあるのですか? (一寸確認)。『水産界』の記事は、葬儀の出席者データとしては貴重です。わたくしの興味からは、徳富蘇峰が来ていたことが目につきます。 ---rshiba 2009年9月20日 (日) 23:20 (UTC)
- 追記しますと、私のwiki兼行出自への疑問は、宮地氏の講演録を読みまして、肝付兼武に関心を持ちましたことに端を発しています。鹿児島県立図書館に、昭和12年の雑誌「伝記」から肝付兼武伝をコピーして製本したものがありましたので、そのコピーを取り寄せて読みましたら、上記のような出自で、wikiの記載とまったくちがっていたわけです。幕末に活躍した肝付兼武という人物について、微禄の藩士の次男なのか、一所持の肝付三男家の出なのかでは、人物理解の基盤が、まったくちがってきます。そういう意味で、事実関係を正したいと志したような次第です。--Iratume 2009年9月21日 (月) 03:58 (UTC)
- 情報将校としての北方への派遣だったのか、単なる脱藩者が北に向かったのか、の違いになるのですね。ぜひ、肝付兼武を項目として起こしてください。田中宏巳「東シナ海と対馬・沖縄」(防衛大学校紀要人文・社会科学編40、1980年)に、島津斉彬とマシュー・ペリーとがほぼ同時期に、蒸気船の時代における琉球、台湾の地政学的な重要性、すなわち、東シナ海の制海権を確保する重要地点としての性格に気づいたとの指摘があります。日本周辺にあるほかのチョークポイントとしては、津軽海峡があるわけで、北方への興味とは、直接には、蒸気船の時代における津軽海峡の制海権の問題だったのではと推測しています。薩摩藩における日本周辺の状況認識との関係で肝付兼武を説明できれば、面白いのにと思っています。--rshiba 2009年9月21日 (月) 04:19 (UTC)
- いまやっとコピーを見つけて、見返してみましたら、宮地氏も「兼武は肝付家の次男でした。兄はこの鹿児島で下級氏族として戊辰以降までずっとお勤めになっている」と書いておられますので、兼武伝の記述を重視しておられるように見受けられます。情報将校だったかどうかについては、将校とはいかず軍曹くらいですが、脱藩した当初はともかく、下級藩士の次男であった方が情報探索にむいていた可能性が高いのではないか、と思っています。根拠は薄弱なのですが、友人が兼武の回想と一致する実家の場所として、『薩藩沿革地図』所収「鹿児島絵図」文政前後に肝付□□院(□□は文字が小さすぎて読めません)という家を見つけてくれています。そのすぐそばに諏訪社という小さな神社がありまして、私は肝付兼武の実家は山伏、兵道家だったのではないかと憶測しております。沖縄、台湾と北方の制海権が関係するというお話は非常に興味深く、ぜひ、ご研究が進めば読ませていただきたく存じます。--Iratume 2009年9月21日 (月) 13:15 (UTC)
なお、肝付兼行の系譜について、ご存じの方がおられましたら、ぜひ、お教えください。--Iratume 2009年9月21日 (月) 13:15 (UTC)
このノートをご覧になって、ブログまで来てくださった肝付兼仁氏のご助言により、「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ二」収録の肝付家文書を見て、出自の解決はつきました。兼行の父・兼武は、喜入肝付氏とは関係なく、広瀬豊著「肝付兼武伝」に記された「微禄の藩士」という出自でまちがいありません。--Iratume(会話) 2012年4月28日 (土) 14:48 (UTC)
IRATUME様へ、
はじめまして、NYのヤヒヤもいします。上の肝付兼武氏情報ですが有難うございました。7年前に私京都大学院文学部日本史研究生でした。2年前肝付兼武氏の刀と東北風談本買いました。その2年間で兼武の情報よく勉強しましたですからでも、本人の歴史できなかった。最近肝付兼仁先生私の勉強沢山たつれました。ぜひうれしかった。肝付先生は肝付喜入家の分家派です。 なお、私まだ広瀬さんの肝付歴史情報ありませんが、どこへ、その情報見えるできますか?ぜひみたいです。 いつも有難うございました。よろしくおねがいします。 ヤヒヤ
私の肝付兼武のブログは:naminohira.blogspot.com 英語ばっかりですけど、すみませんでした。
- お返事が遅れました。ブログのご紹介、ありがとうございます。肝付喜入家と根が同じなのはそうなのだと思うのですが、「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ二」収録の肝付家文の系図で見ますかぎり、関係がわからないほど遠いのだと思います。肝付兼武についての資料なのですが、広瀬豊の「肝付兼武伝」は、昭和12年(1937年)刊行の雑誌「伝記」に収録されています。雑誌「伝記」は国立国会図書館にありますので、論文名を指定してコピーが可能だと思います。また、鹿児島県立図書館には、国会図書館所蔵の雑誌「伝記」から「肝付兼武伝」をコピーして製本したものがありまして、さらにこれをコピーしてもらうことができます。もうひとつ、これも先に書いておりますが、国会図書館、鹿児島県立図書館が所蔵しております「黎明館調査研究報告 第11集」(平成10年)に宮地正人氏の講演録「幕末の鹿児島藩と情報収集」が載っていまして、これも肝付兼武の生涯について述べたものです。NYにおられるのでしたら、国会図書館の方が、利用しやすいかと思います。wikiに肝付兼武を立ち上げようと思いつつ、できないで今にいたり、別の項目を執筆しております昨今です。お役に立てますとよろしいのですが。--Iratume(会話) 2012年5月30日 (水) 03:46 (UTC)